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3分30秒小説『釣師と魚は濡れたがる』

 「釣れた釣り人はただのお調子者、釣れない釣り人は哲学者」
  夢枕獏の言葉である。今日の俺は、哲学者だ。                   

 無傷の釣り竿を掲げ一人帰る――つもりだったが、ぐずぐずと佇んでいる。
 釣りの醍醐味は、釣れない時にこそある……駄目だ。俺は哲学者にはなれない。やはり釣りは釣ってなんぼ。釣れないと悔しい。だからこそ釣れた時に楽しいのだ。この悟りとは程遠い境地も、哲学の範疇なのだろうか?ならば更に思考を進めよう。

 果たして磯というフィールドにおいて、人間と魚、どちらが有利なのだろうか?自然を研究し尽くし、洗練された道具を駆使して攻撃を仕掛ける人間側なのか、研ぎ澄まされた本能で、餌の真贋を見極め、海面下を自由に泳ぎ、時に水面に飛び出し跳ねる魚の方か。
 その答えを磯に求め10年、未だに正解を見い出せない。ひょっとしたら、そこに答えは無いのかもしれない。

「ふぅー」

 夕刻の薄ら闇に浮かぶタバコの火、電気浮きのようだ。

「最良の仕事の日よりも最悪の釣りの日の方が、まだマシである。」
 ニュージーランドの諺。
「帰ろう」
 怒りにも似た情熱を維持したまま、歩く俺の目に魚影――横っ腹ギラリ。

 俺は努めて冷静を装った。見ないように見ないように足早に通りすぎようとした。
 パシャ。
 水面をかき乱した。鱸(スズキ)だ。まるで「おい、人間!俺を釣れるものなら釣って見ろ」と言っているようだった。いや、確かにそう聴こえた。

「機会はどの場所にもある。釣針を垂れて常に用意せよ。釣れまいと思うところに常に魚あり。」
 オウディウス(古代ローマの詩人)の言葉。

 畳んだはずの竿、居合を抜くようにケースから出す。カーボンファイバーのしなやかな竿がグイーンと音を立て、天を突く。
 仕掛けをセットする。今から挑むフィールドは、未知のフィールド。いや環境というものは千変万化するもので、同じ場所でさえ5分後には全く様相を変えてしまうもの――つまり釣り人にとって既知のフォールドなんてものは存在しない。

 仕掛けを沈める。目指す獲物は眼と鼻の先。遠投の必要はない。ゆっくりと目の前に沈める。
 「見えている魚は釣れない」なんて事を訳知り顔で言う奴がいるが、そいつは釣りというものの本質を理解していないただの未熟者である。
 「見えているのが当然な魚は釣れる」のである。つまり、生息域が水面近くである。もしくは水深が浅い。そういった場合には、見えていても釣れる。また餌を求めて水面に昇って来る魚も釣れる。
 今、目の前に居る魚、「見えているのが当然な魚だ」。

(釣れるぞ)

 気配を殺す。心を仮死状態にする。瞑想に近い感覚、釣り人が真に哲学者になり得る時は、こういった瞬間だ。脳派がαを描いて揺れる。一秒が一秒でなくなる。言語野を閉鎖する。次に俺が口を開くのは、この竿がしなる時。
 その時こそ俺は、腹の底から歓喜を爆発させて言うだろう――「フィッシュオン」と!


「大将。なんか表におかしな人がいるんですけど」
「んー、釣りの帰りだろ?あの様子じゃ今日は坊主だ。魚を見て悔しがってるだけだ。ほっとけ」
「でも随分長いこと、生簀の前でごそごそと――」

「フイッシュウォーーーン!!」

「ああーーーーーー!!」
 


『釣師と魚は濡れたがる』開高健”フィッシュオン”より


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