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2分40秒小説『嘴と唇』

 今から私の掌の中で一つの命が終焉を迎える。それは紛れもない事実である。明け方、陽の気配を察してレースカーテンが光を透かす準備をしている。

 私の体温はどこに行ったのだろうか。掌で包み込んだタラコにすべて与えてしまいたいのに、肌は夏のフローリングのように冷たい。
 タラコはセキセイインコ♂、元彼がそう名付けた。いや、名付けたというか、私の厚い唇を揶揄して、彼が「タラコ」を連呼するから――タラコが最初に覚えたのは「オハヨー」でも「コンニチハ」でもなく「タラコ」――自ずと名前もタラコになってしまった。
 だけどタラコは私の唇なんかではなく、私の心臓、カレの小さなそれを指して言っているわけじゃない。カレの存在そのものが私の第二の心臓なのだ。それが今弱弱しくフェードアウトしようとしてる。

 元彼とタラコ、二人で私に向かって「タラコ」「タラコ」って……あの馬鹿馬鹿しい時間、あの時間の経過する速度の中にもう一度存在したい。

「ダイジョウブ?」

 タラコが喋る。タラコを看病し続けたこの30日間、教えるつもりなんてなかったのに……。
「ダイジョウブ?」
「聞かないで」
「ダイジョウブ?」
「お願いタラコ」
「タラコ、ダイジョウブ?」
 私は呼吸を止め。

「ダイジョウブジャナイヨ」

 瞼の裏に向けて呟いた。涙になりかけたの感情がそこで熱を持ち始めている。

「ダイジョウブダカラネ」
「ダイジョウブダヨ」
「ダイジョウブ」
「ダイジョウブ」

 私の闇に向かってタラコが話しかけてくる。教えるつもりなかったのに……覚えなくていい言葉ばかり覚えてこの子は……。

「ゴメンネ」

 すべての言葉が時間差で私に跳ね返ってくる。掌の中で、浅い呼吸を繰り返しながら、私の言葉をセキセイインコの口ばしが再放送している。

 剥がれかけのペディキュアに陽が差した。

「ごめんね」
「ゴメンネ」
「ごめんね」
「ゴメンネ」
「ごめんね」
「ゴメン……」

 聞こえなくなった。掌を閉じる――容赦なく滴る熱涙からタラコの遺体を守る為に。タラコは私の弱くて脆い愛情をその身に受けすぎて、病気になってしまったのだろうか?私がカレを殺してしまったのだろうか?掌が焼けそうだ。

「ごめん」

 背後から抱き締められた。
「連絡もらったのに、間に合わなかったようだね。タラコ……ごめん」
「勝手に入ってこないで!」
「合鍵を返しに来たんだ」
「離して、大丈夫だから」
「大丈夫じゃない。だから大丈夫になるまで離さない」
「無駄だから止めて!多分私はこの先一生……大丈夫じゃないから」
「じゃあ一生離さない」

 レースカーテンが光っている。

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