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3分30秒小説『それでもキミを愛している』

 さびしがり屋の沼が居た。
 沼は友達が欲しかった。でも沼は紫色で、臭いも酷くて、あらゆる生き物が近づこうとはしない。沼は心を病んでいた。

 ある朝、空から何かが降って来た。沼は思わずキャッチした、何かと思えば糞だ。見上げる。渡り鳥がそそくさと通り過ぎてゆくのが見えた。紫の沼に一点、白と黒が混じった糞が乗っかっている。沼は失望した。「糞では話し相手にはならない」。

 数日して、糞から何かが出てきた。芽だ。糞の中に種が入っていたらしい。どんな植物に育つのだろう?沼は期待した。

 一月して、芽は大きく育ち、茎を天に向けて伸ばした。葉は一枚もない。ひょろひょろと伸びた茎の先に、芽が一つ付いているばかり。「ねぇ、君、葉っぱは出さないのかい?」沼が話しかけた。植物は返事をしない。喋れないようだ。それとも渡り鳥が異国から連れてきたから言葉が通じないのだろうか?沼はがっかりした。

 数か月して、茎の先の芽が開いた。花だ。葉を一枚も付けることなく、花が咲いた。しかも大輪。花びらの一枚一枚が、赤、青、黄、緑、黄緑、それぞれ違う色を宿しつつ、うっすらと透けている。微かでも木漏れ日が当たると、花びらはその色合いを千変も万化もさせ、色彩を揺らめかせた。

 或る朝、沼を通りかかったバンビが、輝く色彩を見つけてやってきた。「花だ」バンビは驚いて、見とれた。「なんて綺麗な花だ」沼が話しかける。「ボクが育てたんだ」実際にそうだと思った。沼の養分がこの花を育てたのだから。「凄く美しいよ。それに良い匂いがする。沼さん、君が育てたの?凄いね。こんな美しい花を育てるなんて」沼は喜んだ。「もっと近くで見ていい?」「嗚呼、いいよ」。
 花に近づいたバンビは沼に嵌り、ずぶずぶと沈んでいった。叫ぶ暇もなかった。
「なんてことだ!」
 沼は悲しんだ。「ボクは底なし沼だったんだ……今まで誰も近づいて来たことがなかったから、気付かなかったよ」。

 釣り人がやってきた。「綺麗な花だな」近づいてくる。沼は警告した。「駄目だよ!それ以上近づいちゃ!」でも人間は沼の言葉が分からないらしく、バンビ同様、一瞬にして沼に吸われていった。「嗚呼」。

 毎日毎日、色んな生き物がやってきて、花に見とれ、近づき、そして沼に嵌っていった。沼は注意する。でも誰も沼の言うことを聞かない。沼底に死体が積もってゆく。それが養分になって、花はより大きく、より美しくなる。より多くの生き物が集まる。

 沼は話し相手が、理解者が欲しかった。それなのに、花は一言も喋らない。花の美しさに釣られて近づく生き物は皆、一言二言、いや、殆どが会話する間も無く、花の美しさに吸い込まれ、沼に嵌って消える。
 仕方が無いから沼は、沼底に堆積した骨に話しかけて自分を慰めようとした。でも無理だ。骨は何も語らない。
 「こんな花、咲かない方がましだった」「ボクはこの花に寄生されている」「いっそボク自身が、沼に嵌って消えてしまいたい!」「いや、本当の沼はこの花だ。既にボクはそこに嵌って死んでいるんだ」。

 数年後、沼は死臭を漂わせ、どす黒くなっていた。それに反して花は、幾つもの実を成らせ、種を落とし、沼の殆どを覆い尽くしている。花の香気が、沼の悪臭を上書きして無いことにしていた。そして今日も、誰かが沼に落ちて消える。
 沼は、観念した。花の養分となること、そしてその悪事に加担すること、それが自分の存在意義なのだと、そう思うことにした。納得はしたが、心は冷たいままだった。

 更に数年後、沼は死にかけている――花と花の子孫たちに養分を吸われ尽くして。かつて沼があった場所は完全に花で――その下に、無数の死骸を抱いた花で、埋め尽くされた。

「花さん。せめて君と会話ができれば、僕は寂しくなかったのに」
 沼が消滅する間際に呟いた。花びらが動く。
「ありがとう」
「え?キミ喋れるの?」
「ええ」
「どうして……どうして今の今まで僕と会話をしてくれなかったの?」
「だって、貴方は沼ですもの。でもお礼を言うわ。ありがとう。そして、さようなら」


「花にお礼を言われ、別れを告げられ、沼は最期になんて言ったと思う?」
「分からないわ。教えて」
「さっき、僕が君に言った台詞。それがそうだよ」

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