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3分30秒小説『殻を背負えばカタツムリになれると信じていたナメクジの話』

 くたくたになった白菜の破片を身と殻の隙間に挟み込んで俺は、湿った土の上を這っている――ナメクジに会いに行く為に。陽が赤みを帯びているしかし、その光の終焉は青い。

「やぁ、来たね」
「来るさ。ほら」
 ぞんざいに白菜の破片を落とす。ナメクジが歪んだ笑みを浮かべる。
「不満ならいつでも――」
「いや……不満はない。それじゃあ、また明日」
 ナメクジは、突き出た目玉をぱちくりっとやって、これ見よがしに白菜に齧りついた。俺は背に負うた殻に押しつぶされそうになりながら、粘膜の筋を辿って来た道を戻る。

 俺は……殻さえ手に入れれば、すべてが変わると信じていた。実際に殻に身を差し入れた瞬間、全身の細胞が膨張するのを感じた――もうこれで、乾風に当てられ干乾びる心配も無い。醜い身体を恥じる必要も無い。カマキリの鎌にずたずたにされる危険も無い――そう感じた。

 でもそれだけだった。

 毎日、殻の賃料をローンで払っている。陽が消える前に、あいつに食べ物を届ける。
 ひょっとしたら俺は、自分の暮らしを良くするためでなく、行き場のない惨めさをあいつに押し付ける為に殻を奪おうとしただけなのかもしれない。その目論見が果たせなかった今、この殻はただの重たい螺旋構造物になり果てた。今の俺は、蟻に使役されているアブラムシのよう――まるで奴隷だ。
 あの日のことを思い出す。


「殻を被ってもナメクジは、カタツムリにはなれないよ」
 柊に引っ掛かったタンポポの種が言った。俺は全身を使って棘からふわふわを解放してやりながら一笑した。
「殻を被れば誰でもカタツムリになれる」
「どうしてそんなにカタツムリになりたいの?」
「辛いんだ生きるのが。見ろよこの醜い身体を」
「醜い?そうかな?」
「気休めはいらない」
「気休めなんかじゃないよ。だって、お日様を浴びると君たちの体には小さな虹が張り付くじゃないか。いつも新鮮な粘膜で濡れていて、すごく生命的で美しいよ。それに比べて殻は、ただの作り物だよ」
「種子には分からないんだよ。俺の苦しみが」
「君は美しいよ。それに気づいていないだけ。でも自分のことを醜いと思う存在は、きっとどんどん醜くなっていくんだ。そう思うよ。だから君も――あ、風だ。じゃあ僕は飛んでゆくよ」


 明日殻を返そう。
 
 残りのローンと敷金を一括で払ってやる。こんな時の為に石の下にネズミの目玉を隠してある。あれを明日あいつに届けてすべてを清算する。そして――。

 旅に出よう。

 どこかに根を下ろしたであろうタンポポを探す旅。タンポポを見つけたら全身で陽を浴びて、体を捩ってターンするんだ。そしたらきっとタンポポは笑うだろう。あのふわふわ坊やがどんな花を咲かせて笑うのか――想像しただけでわくわくする。

 殻から身を乗り出して待っている。闇の終焉が黒を失い、ほんのりと赤みを帯びるのを――世界が光に濡れて、めらめらと輝きだす瞬間を。

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