「陽キャ/陰キャ」は分断を生むからやめようぜ。
この数年で「陽キャ」「陰キャ」という言葉が、若い人たちの間に広まった。今や辞書サイトにも掲載されている。
私は、この「陽キャ/陰キャ」という言葉に違和感、ひいては嫌悪感を覚えていた。
その気持ちの正体をちゃんと言語化しておきたいと思った。日常のなかで気軽に使われるこの言葉を、一歩離れたところから見直してみる必要があると思ったからだ。
キャラクターに優も劣もない
先に引用したweblio辞典では、さらに次のような文が続く。
そもそも人のキャラクター(性格)に「陽/陰」をつけることがナンセンスじゃないのか。
単に「陽気/陰気」という意味で使うだけならば全然気にならない。それは、人の性質を表す形容表現だから。
しかし「陰キャ」に「他人を見下すニュアンス」が含まれるなら、この「陽/陰」は「優/劣」ということになる。
「その優劣は、いったい誰が何の基準でもって判断しているの?」と思わずにいられない。
線を引けば分断になる
私が感じる、「陽キャ/陰キャ」の最も良くない側面は、それが総称として使われると分断を生んでしまうことだ。
個人に対して「イケてる」とか「イケてない」とかいった印象を抱くこと自体は自由だ(相手に表現して傷つけるのはよろしくないけど)。
ところが総称として使われるとなると、途端に「イケてるやつらVs.イケてないやつら」みたいな構図が生まれる。これは、もはや単なる性格を表す言葉ではない。
人のキャラクターにはどこまでも多様性が認められてしかるべきなのに、分断が生じると多様性の均衡が崩れる。
「イケてる側」で優越感に浸る者、
必死に「イケてる側」に飛びつく者、
意に反して「イケてる側」に属そうとする者、
「イケてない」と言われようと自分らしさを貫く者―。
こんな窮屈な環境になってしまうくらいなら、「陽キャ/陰キャ」なんて言葉は使わない方がみんな幸せなのに…と思う。
コミュニケーション能力や社会性の低さは誹謗の理由にならない
「陰キャ」という言葉が持つネガティブ性は、おそらくコミュニケーション能力や社会性の低さに由来するのだろう。
ただ多くの場合、それらの能力を「低い」とするのは、判断する側が主観で言っているだけだ。その「低さ」の背景に何があるのか、その人が”話せない(can't)”のか”話さない(don't)”は無視されているのではないだろうか。
単に話がしたくないのかもしれないし、逆に話したくても話せない理由(過去にコミュニケーションで傷ついた/場面緘黙がある等)があるのかもしれない。そういった背景を全部すっ飛ばして「陰キャ」で片づけて良いものなのか。
コミュニケーション能力や社会性の低さが気になるのであれば、それによって実際に何かトラブルが起こったときに取り沙汰すればいいのだし、
そのトラブルを解決するためにこそ話し合いを尽くせばいいのであって、その人を誹謗しても何も良いことはない。
***
何だか意に反して暗い感じの文章になってしまった気もするけど、伝えたいことは要するに、「陽気だろうと陰気だろうと、その人の個性なんだから尊重しようよ!」ってことだ。
「あなたのタイプは”ようき”なんだね。私はタイプは”いんき”だよ」と、ポケモンのタイプについて話すくらいのノリで捉えられたらいいのに、なんて思うのだけど。
追記('22/7/17)
投稿から1年以上経っているのですが、なぜか意外と読んでいただいているようなのでちょっと追記。
「陽キャ/陰キャ」と総称することで分断が生まれてしまうというのが、この記事の一番の主張なのだけど、
いま思うと、この総称のイヤなところがもう一つあった。
それは「人を単純な2つのカテゴリに分類してしまうこと」。
まさにセカオワの「habit」で歌われているような話。
世の中いろんなキャラの人がいて、キャラの違いがコミュニケーションの難しさになることもあるんだけど、違うからこそおもしろいということも大いにある。
けどそこに「陽キャ/陰キャ」を持ち出すと、途端につまらないカテゴライズが始まる。
人間って、そんな単純な二項対立でとらえられるほどつまらなくない。
カテゴライズとは、全体を見やすくできるメリットがある一方で、カテゴリにとらわれて個々を見落とすデメリットもある。
少なくとも、人のキャラを見るときには適さない行為じゃないのかな。
それでも分類したがるのだとすれば、それは「人と関わる」という営みを放棄しているということなのかも。
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