見出し画像

りわの「写真て、なんだろう」【第2話】

「使い捨て」という事に心がざわざわした日


夏休みに通りかかった小淵沢駅の渡り廊下で、上高地のPRポスターを見かけた。
よくある河童橋の写真ではなく、早朝の大正池の写真だった。

うっすらと残る朝靄、真横から差し込む朝光、程良いバランスの雲と青空。
そしてポスターの半分を占める巨大な水鏡。
雲や穂高連峰を映し出した早朝の大正池は、さざ波一つない。
素晴らしい瞬間が切り取られた写真を使ったポスターだった。

ちょっぴり写真の勉強をしているせいで、どんなシチュエーションで撮られた写真か、なんとなく分かってくる。
新緑がきれいで朝霧が出やすい時期。
風がなぎ青空が期待できる日。
日の出の時間に合わせて、穂高が見える場所に三脚を立てる。
撮影した彼か彼女は、どのくらいその場所に通って何時間粘ったのだろうか。

JR東日本のそのポスターは、コピーも含めて素晴らしい出来栄えだった。
でも、どんなに見つめても、コピーライターもフォトグラファーも名前は出ていない。
ポスターだから仕方ない。
そして、ポスターそのものも掲載期間が過ぎれば捨てられてゆく。

どんなに素晴らしい写真でも、結局使い捨てにされていくんだ。。
そう思うと、心のざわざわがなかなか止まらない。

毎日毎週積みあがるインスタグラムやユーチューブの膨大なデータ。
身の回りを見渡せば、ポスターや雑誌、ネットのコラム、写真集、チラシ至る所で様々な写真が使用され、毎日の様に消費されていっている。

そんなブラックホールに飲み込まれる渦の中に、どうでもいいような自分の写真を付け加えたところで、世界にどんな意味があるというのだろう?
ひょっとしたら、撮った本人ですら二度と見返さないかもしれない写真なのに。

「あら~、ずいぶんへたばってるね。」
「…なんの意味もないのに、なんで私は写真を撮るのかな。」
「それはね、やっぱり…」

ぼーっとしていると自分の中で会話が始まる。

「やっぱり?」
「一つは自分の記録じゃない?いつかのこの日、どこで何をしていたかの。」
「そんな記録いる?」
「記憶ってぼけちゃうからねぇ。写真なら細かいところまで思い出せるし。」
「でも花ばっかりだし。記録してもしょうがないんじゃない?」
「他のも撮ればいいじゃない。」
「絵になる様な名所にはなかなか行けないよ。」
「身近な風景でも、見ようによっては面白いよ?」
「見飽きててうんざり」
「家族なんて知らないうちに変化してるから。毎日撮ったら?」
「それは。。。ちょっと気恥ずかしいかも。」
「カメラを絵筆だと思って、絵を描いたら?」
「絵を?」
「カメラは機械だから、人の眼では見られない世界を創れるよ。」
「シャータースピードとか絞り変えてとかのあれ?」
「色味とかボケ具合とかフラッシュ光とか色々あるでしょう。」
「あるらしいねぇ、あまり勉強してないけど。。」
「でしょ?まずは色々やってみないとね。たとえば…」

自分の中で会話してると、使い捨てされる写真にどんな意味があるのか、という話から、色々やってみたらいいんじゃないの?という話に
いつの間にかすり替わっていた。。。我ながらいい加減だ。
でもこのいい加減さこそ、人間をやっていけるよすがなんじゃないかって気がする。
決めたことはきっちり遂行っていう生き方も素敵だけど、私には無理。
風に吹かれて飛んで跳ねて、行った先でのほほんと生きるのが性に合ってる。
だから気を取り直して、明日も下手な写真を撮りに行こう。

いずれ捨てられるポスターの写真も、撮った人の手元にはデータが残っている。
いつか写真集として形を変えて、また日の目を浴びることもあるかもしれない。
星が爆発して、遠い時間の後にまた新しい星になるように。

撮ることも見ることも、写真は楽しい。
今日のこの黒いモヤモヤは消えたわけではないけど、
いつの日かカッチリと結晶して、
光に反射する白いキラキラを生みだせるといいなぁ。

画像1

画像2

画像3

画像4


写真・文:渡辺理和

渡辺理和(Riwa Watanabe)プロフィール
2018年から写真教室に参加中。
若い頃から写真に興味はあったものの、きちんと写真を撮ることを意識し出したのは、3年前に姪っ子にインスタグラムを教えてもらってから。
当初はコンパクトデジカメを使っていたが、2年ほど前に一眼レフの入門機を購入。
基礎講座に通い、入門者から初心者へジョブチェンジ。
さらに中級者を目指しレベルアップに励むも、返り討ちにあったりする。
主な撮影場所:ご近所、大きな公園、旅先など。撮影は時間&体力と相談なので、人だかりのできる有名スポットはほぼ無し。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?