「コウモリである」ということを理解できるか? 【ネーゲル 『どこでもないところからの眺め』, ALife Book Club 5-2】

こんにちは。Alternative Machine Inc.の小島です。
前回に引き続き、哲学者トマス・ネーゲルの『どこでもないところからの眺め』(原題"The View from Nowhere")についてお話します。

今回もややこしくてめんどくさい話なのですが、なにとぞお付き合いください、、

前回お話した通り、この本のテーマは主観と客観をどうつなぐかということです。

理解する主体が人である以上、かならず主観から始めるしかありません。一方で、それを超えてみんなが理解できるもの(客観)に至ろうとする営みがあり、その典型例が科学(とくに物理)なのでした。
(そうしないと、いつまでたっても「あなたの感想」にすぎないといわれてしまいます。)

基本的に科学者にとってはここで話は終わっています。この世界は究極的には物理法則で記述できるものであって、それで全て網羅し尽くせるはずと考えるからです。

でも、そこで話が終わらないというのがネーゲルの主張な重要なポイントです。これが明確になるのは、「主観」を理解の対象にしようとするときです。というのも、客観に向かえば向かうほど主観から遠ざかるはずだからです。
このポイントをもう少し詳しく見てみましょう。

「コウモリであるとはどのようなことか」

トマス・ネーゲルには「コウモリであるとはどのようなことか」("What is it like to be a bat")という有名な論文があります。

ここで論じられているのは、コウモリを客観的にいろいろ調べたとしても、コウモリの主観(「コウモリである」ということそのもの)は原理的に理解できないということです。
コウモリは哺乳類でそんなに人と遠くないことを考えると、コウモリもなにかしら「自分が存在している感じ」を持っていそうです。でも、コウモリを外から色々調べても、その「コウモリである」という感じには絶対に迫れないだろうというのがネーゲルの主張です。

コウモリの感じを想像しにくい理由の一つとして想定できるのは、人との体の違いです。特に大きな違いは、人が光(視覚)で外界を捉えるのに対し、コウモリは超音波をつかうことです。それゆえ、コウモリにとってまわりがどのように「見えているのか」を想像するのは難しそうです。

でも、あくまでも使う感覚入力の違いだけならなんとかなりそうな例がいくつかあります。

まずはこの動画をご覧ください。これは目の見えない人が、反響音を使うことでまわりが「見える」という動画です。

そして、こちらは触覚を通じて外界を「見れる」というものです。

こういった例からわかることは、人であっても何らかのデバイスと訓練があれば、コウモリのように超音波をつかって外界を把握することはできるだろうということです。

さらにドローンにVR技術で憑依するなどで、飛んでいる感じも再現できそうです。
(宙吊りでVRを体験している動画も参考までに貼っておきます。こちらは、以前池上研も関わっていた"Bird Song Diamond"というインスタレーションです。)

こうすることで、だいぶコウモリの体験に近づいていけそうです。

では、これで「コウモリであるとはどのようなことか」が理解できるでしょうか?

ネーゲルの答えはNOです。
なぜならこういったことは「わたしが他人の身体で感じる」ということにすぎないから
です。
最終的に「わたしが感じる」というステップを介している以上、コウモリという別の動物がどう感じているかには迫れていないのです。

そして、同じことは「他の人」にも適用できます。人同士であれば身体が類似しているために、なんとなく自分の体験を投影することで「他人である感じ」が想像でます。でも、これも自分の感じ方を経由している時点で、本当に「他の人の感じ」には到達できていないのです。

主観の客観化へ

ずいぶん厄介な話になってきました。

こうなってくると、「他人であること」は考えられないものだとしてあきらめるのも選択肢のひとつでしょう。客観的な描像にどうやってものらないのだから、しかたのないことです。

ところがネーゲルはそんな生ぬるいことを許してくれません
客観的な世界認識は維持したまま、そこに主観的なものを客観的に捉える方法を探るべきだというのです。

ここはよくわからない部分なので、来週もひきつづき考えていくつもりですが、大まかなイメージを掴むために、完全に物理的で客観的な世界観を考えてみましょう。ここではもはや客観的なものしかありません。だから、他人という生命体の行動を記述することはできますが、その他人が自分と同じような意識経験を持っているというようなことを考えることはできません。客観的なものしか存在しない世界では、原理的にそのような主観は存在しないのです。もっというと、自分の主観というのもこの描像から外さないといけません。ただただ全てが物理法則に従って動いている世界。それだけです。

これでいいという人もいるでしょう。(ぼくもわりとそっち派です。)でも、やはり他人にも主観があるということを考えたいなら、それを救う方法を考えないといけません。ネーゲルがやろうとしているのはそういうことです。

ネーゲルの三段階のアプローチ

さて、そこでネーゲルのとったアプローチを概観しておきます。

世界は客観的に理解できる側面、つまり、特定の意識ある存在やその種類に依存しない立場から理解できる面をもつ。それでは、意識ある存在は、いったいどのようにこの世界に組み込まれるのだろうか。この問は三つの問に分けられる。まず、頭の中で起きていることは、それ自体客観的なのか。次に、客観的だとふつう信じられている現実の物理的側面と、この頭のなかの出来事とはどのように関係しているのか。最後に、世界にいる多くの人々のなかにこのわたしが入っているということが、どうして可能なのか、という問だ。

トマス・ネーゲル『どこでもないところからの眺め』(春秋社)

ややこしいですが、以下の三つに分けて議論しようとしていることだけ覚えておいてください。

1. 「頭の中で起きていること」は客観的に扱えるか?
2. それと、物理的なものはどう対応するか?
3. 客観的な世界にどうわたしが入り込む余地があるか?

次回は、この3つのステップについてそれぞれ説明していきます。

ヴァレラとの関連

最後に、以前取り上げたヴァレラの議論との関連だけ一言付け加えさせてください。
ヴァレラもどうやったら(日常の体験と乖離しないような)心の科学が可能かを考えようとしており、今回のネーゲルのモチベーションと近いところがあります。

ただし、ヴァレラは基本的には物理法則にもとづく世界という描像をベースにはしており、そのうえで情報のような概念でただの物理法則を超えた理解を目指そうとしています。(このあたりに対するネーゲルのアプローチは次週説明します。)
そしてなにより大きな違いは、ネーゲルは「自己」というものを前提するのに対し、ヴァレラは「自己」は本来ないとし、あると誤解している日常の体験自体を変えるべき、としているところです。ヴァレラはここから仏教的なものへと接続していくことになります。

ネーゲルは、論理的には厳しくとも、常識的にあってほしいものを守ろうとして苦闘している感じがあります。

次回予告:主観の客観化への3つのステップ

今週もややこしい話を最後までご覧いただきありがとうございました。

次回はネーゲルがどのように「主観の客観化」という途方も無いことにアプローチしようとしたのかを(がんばって)説明していきます

ぜひまた来週もご覧ください!

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