国立博物館の常設展が果てしなく広いみたいに

5月18日は国際博物館の日、らしく全国の博物館・美術館が割引または無料で入館できる。という記事をサジェストしてくれるGoogleはしっかりパーソナライズされているなと感心。

科学博物館と東京博物館には子どものとき以来行っておらず、西洋美術館にも好きな絵がたくさんあるから朝から晩まで入り浸りたいところではあるけれども、昼間に見ておきたい映画があったから午後からにする。タダだからというより、お祭りに乗じたいだけなので、上野に行けばいつでも見られる常設展より当分見られないであろうジョン・フォード特集を優先する。となると満員とか入場制限が心配になってくる。年末に開催されていた国宝展はチケットが即完しており、他の人気の展覧会でも土日は混雑するのが常だ。そこまで多くの人が博物館の日のことを知っているとは思えないが、天気も良くお出かけ日和なのでもしかしてと少し心配しながら昼過ぎに上野へ向かう。

果たしてそれは杞憂に終わった。特に人が集まっている様子はなく、国立科学博物館は入り口を一瞬見失うほどだった。無料とはいえ何の手続きもなく博物館に入るのは不思議な感覚であった。入り口でチケットやお金を捌く必要がないこともあるだろうが、心配していたような煩わしさなく入場できた。決して空いていたわけではなく、ゴールデンウィークはまだ終わっていなかったのかと勘違いするほど幅広い年齢層と国籍の人々が集っていた。人が少なかったのではなく、場所が大きかったのだ。常設展の規模を私が見くびっていた。学生証を使って無料で入れた頃、上野で飲み会の前の時間つぶしのつもりで西洋美術館に入ったときに、どこまでも出口が見えずに遅刻してしまったのを思い出した。西洋美術館には見当たらなかったのだが、科博には全体図があり、日本館、地球館それぞれ全フロアの内容が一覧できるようになっていた。すべての展示を回るには片方の館でも一日では足りない情報量だ。閉館までの3時間ほどで科学博物館、東京国立博物館、西洋美術館をハシゴする計画は破綻し、一番気になったフロアだけそれぞれ見ていくことに決めた。日本館では「日本人の歴史」のコーナーを、地球館では最も地下にある科学の基礎「はかる・調べる」のコーナーを回って出た。東博では日本美術の移り変わりについての展示を巡った。先ほど科学の歴史の文脈で語られていた土器の変遷が、芸術の歴史でとらえられていたのが興味深く、ハシゴの面白さを感じた。結局西洋美術館はまるごと諦めた。教科書で読んだことがある話の復習だったはずだが、それでも動物のはく製や何百年何千年前の人が実際にふれていた物品のアウラを体験するのは、純粋なワクワクに満ちていた。

閉館の鐘を聞きながら東博の大階段を降りていくあいだ、私が生まれる前から守られてきた大きな時間と空間を浴びた満足感に浸っていたが、それの当たり前じゃ無さにも怯えていた。これだけ多くの物と広い場所を守っていくために必要なコストは、最小限の生活をしている自分からは想像できないものであろう。特別な日だからと訪れた人たちを受け入れても余裕があるほどのキャパシティをもっていたら、週に5日ある平日の昼間はもっと歩きやすいのだろう。どれだけお金を稼げるかですべての価値を決めようとする今の社会にとって、こんな「無駄」に見えるものはない。近くの東京藝術大学はピアノも置けないほど切羽詰まっていて、科博のVRシアターは寄付を募っているほどだった。新しい価値をつねに生み出すことで利益を得ることで富を大きくしていくなかで、そこにありつづけるだけのものはなんの価値もないという理屈だろうか。目まぐるしく交換されて新しく企画展の情報ばかりが目につくけれども、博物館が"館"たる所以は、

こうやって"ずっとそこにあるもの"がずっとそこにあり続けられないのが今の世の理なら、それは絶対に考え直さなければいけない。かくいう私も特別な日だったり、会期の終盤に慌てて行くのだから、それに気づけていなかった。配信サービスで半永久的に視聴可能になって映像や音楽のようにいつでも+どこでもアクセスできるものではなくて、いつでも+ここだけでアクセスできるものの価値に目を向けられていなかったのは私のほうだった。

日が暮れていく上野恩賜公園の、おそらく入れ替わり立ち替わり新しい食べ物が並んでいるキッチンカーをみて、今日みた品々にまたいつでも会える安心感を覚えた。お茶屋さんで買ったみたらし団子があっという間に消えていくのが儚かった。



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