車いすを押して歩くと段差に気づくみたいに

昨日仕事で車いすのお客さんを少し離れたところまで送っていくことになった。いつもは割と皆さん自力で行き帰りされるのだが、その方が前来た時、道が混んでいて人にぶつかりそうで怖かったという。たしかにうちはそこそこ急な坂の途中にあって、自重を手で支えて進む人には遠く感じる場所だったのだと、今回初めて思い知った。自分も自転車で来るときはその勾配を感じているが、きつかったら足をつけば楽にすすめることからその立地をおっくうに思ったことはなかった。でもたしかに、急すぎてありがたくない下り坂だとは思っていた。

何も話さず乗り切れるほど短い時間ではなかったので「今日は楽しんでいただけましたか?」などという、本来サービス内容に入っていないような接客をした。他のお客さんともこういう時間があればいいのになと思った。たまにだから良いのかもしれない。

車いすを押しながら、なんども「段差越えます」などと偉そうに注意を促してしまったが、わざわざ言われなくてもわかっていただろう。私より近い目線で地面をみているのだから。そのとき私が手から感じていたタイルの凸凹を全身で感じているのは彼女のほうなのだから。私は普段”凸凹”の縦画の部分をまたいで横画のところだけ踏んでいるにすぎない。凸凹の縦画は、飛ばし飛ばしでそれを経験する私たちにとって「段差」でも、すべての面に接しなければいけない人にとっては「壁」なのだ。

普段歩いて踏んでいるこの街を、私は”さわって”しかいないのだ。みるだけじゃなくてさわっているだけで偉いと思っていたが、街を”なでて”いるひとのことを知って、背筋を伸ばした。憐れむところもあるが、うらやましい部分もある。凸凹のない街は彼女たちにとって、私たちにとってよりずっとずっと気持ちいいところなのだろう。そういうところがくれる高級シルクのような手触りを、私たちは体験することができない。

”さわる”より”なでる”ほうが、ずっとそれを愛している感じがする。そうするしかない関係を愛と呼んでいいのかはまた別の話だが。どちらにせよコンクリートまみれの街は愛らしいかたちをしてはいない。その上に立っているものにしか興味ない人々のために自分の身体を歪ませながら形を変えていき、だれもなでてくれなくなってしまうのだろう。そんな愛に飢えた存在をしっかりなでてあげている人はいるのだと、知ってほしいな。

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