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街裏ぴんくが噺しスカートが唄うのを、『アダマン号に乗っている』人たちも耳をすませ

映画、演劇、音楽、テレビ、ラジオ...…。続けて体験したからこそ同じ見え方をしてしまった話を書いています。どっちかしか興味がなくても、読めます。

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お笑い芸人が小説の帯を書いていたり、音楽家が主題歌を提供してもいない映画のチラシにコメントを寄せていたりすると一気に興味が湧く。その場合の芸人や音楽家は、その方法で表現するプロフェッショナルではない点でなんでもない私と同じ「素人」とみなせる。だからそうやって違う世界の人の心を動かすことができる作品ならば、培われた審美眼がない自分にも刺さるのではないかと期待する。

そういうときめく交歓の時間を目の当たりにできるのならば、スカート×街裏ぴんくツーマンライブ「VALETUDO QUATRO」はスルーできないライブである。さらば青春の光×Creepy Nuts、ニューヨーク×クリープハイプなどお笑い芸人とミュージシャンのツーマンライブは最近よくやっているけれども、これは様子が違う。なにやらずっと打ち合わせをして何か企んでいるし、ディレクターが「【前半】スカート 【後半】街裏ぴんく みたいな構成ではありません。」とわざわざ教えてくれている。こんなワクワクする試みをするのがどっちもたまたま好きなアーティストでよかった。

幕が開くと喫茶店のようなセット。そこに二人が座りいま目の前で行われているライブの打ち合わせのテイで「こんなことやりたいですね~」と提案しあい、暗転を挟んで実際にそれが目の前で演じられていく。互いの好きな曲や漫談をリクエストしてそれを実際にやったり、共通のテーマをもった互いの持ちネタを披露しあったり、街裏の噺に登場するとある”音”を具現化してスカートの曲の伴奏に用いたりと、見事なコラボレーションだった。互いの世界にひと目で見抜けるような親和性はなかったけれども、スカートのメロディーラインにある”飛躍”(たとえば「ストーリー」の「♪おちつかないわ」のところ)に感じる熱量は街裏ぴんくの漫談の突飛な展開で感じるものに近いかもしれないなど、ライブが進むにつれて二つの丸い巨体が漸近していきひとつの”∞”になっていくようだった。特にここに来てよかったと感じたのがクライマックス。スカートの「架空の帰り道」をもとに新しくできた(あくまで体験をもとにしているので「つくった」ではなく)漫談を披露し、そのあと澤部がその曲を歌うコーナー。街裏が語る出来事は澤部の歌声が醸し出す青春の透明感を帯びていて、ライブのエンディングテーマとして流れる曲

映画の中にひとり迷い込んで 車を走らせる……ことがあるとして
想像とは違って一本道や険しい道でさえなかったけれど

架空の帰り道 / スカート

は”街裏ぴんくのテーマソング”に聞こえた。

そうして目の前で実現していた、音楽と漫談を通した二人の”対話”に欠かせなかったのが、見せている側と見ている側を分けない二人の演者の配置だ。弾き語りなり漫談なりをしている間も、もう一方が常にステージの奥にいてリズムに乗ったり笑ったりしている。こうやってパフォーマンスをしている人とそれを見ている人が同じ画角にいてそこに自分が向かい合っている構図はなかなか見ない。その聞いている姿をひとつの見世物としているような。「聴いているところ」に注目することはあまりない。テレビのお笑い番組でネタが演じられる間にゲストや審査員の笑った顔が挟まれることはあるが、笑っていないところまですべてさらけ出されているのは珍しい。澤部は笑うことで忙しそうであったけれども、街裏はときどき身の振り方に困っているようにも見えた。普段その才能に耳を傾けられる人が耳を傾ける姿が新鮮で、帯やチラシのコメントを見たときよりさらにくっきりしたときめきがあった。

そのすぐ後だったからかもしれないけれども、『アダマン号に乗って』のなかでたびたび行われる集会のシーンにおいても、話している人と聞いている人が同じフレームにいるとき、聞いている人のことばかり見てしまった。自らの芸術観を雄弁に語るおしゃれなおじいちゃんが、つづくシーンで映される集会で、新しく赴任してきた精神科医の自己紹介に耳を傾けている。ほかの乗船者についても、語っているところが映されればどこかその先で誰かの声に耳を傾けるのを目にすることになる。

一度乗ったら当分はそこに居るのだから、集会となれば画面が一度みたことがある人々になるのは当たり前のことである。ただの普通じゃない人のドキュメンタリーが、場所性をもつことでそれぞれの人のさまざまな面を捉えられている。個人主義の国のなかで、発達や精神のかたちが”普通”と違う個性豊かな人が集まるときいて想像するような”事件”は、本当は起こっているかもしれないけれど何一つ映されず、みんなの日常のしぐさをまなざしていく。どういうところが普通じゃなくて病気をみなされているのかとか、この船に乗るようになったきっかけとかを尋ねることがないのは、誰も特殊な人と思っていないからであり、そもそも特殊な人しかいないからであり、それは本当は船の外でだってである。

何かを話しているときは、何を持っているか、何をしてきたか、どういうことを思っているか...…、わざわざそれを人に話す以上”あなたではなさ”を伝えなくてはいけないから、ときに誇張してしまったり意地を張ってしまったりする。何かを聞いているときこそ何も背負わないでいられる時間なのではないか。私が今週みた人たちは、ステージの上に立っていたりカメラを向けられていたりしたから、演じることをやめられていないかもしれない。それでも絶対に耳を傾けている相手以外のことを忘れている時間はきっとあり、そのありのままの姿を忘れずに見ていた私も間違いなくいた。

街裏ぴんくもスカートも今回の会場だった渋谷のCLUB QUATTROより大きい会場をひとりで埋めることのできる人であるはずだ。なのにチケットが売り切れていないのはなんでだろうとずっと不思議だ。どっちも好きじゃないと共演は楽しめないとでも思っているのだろうか。もし漫談またはスカートの弾き語りに全く興味がなくたって、好きなアーティストの”聴き方”を見ていればいいのである。そんな体験ができるほうがむしろ価値がある。『アダマン号に乗って』はただ、色とりどりの人が混ざり合って暮らすの空間の心地よさを体験するだけで十分な映画だけれども、なにかメッセージを伝えるとしたら、耳を傾けることとか対話することを欠いた人々への注意喚起みたいなものも感じた。

そうやって映画を観ていた私のことも、クアトロのホールで片手にハイボールを持ちながらツーマンライブを見つめていた私のことも誰ひとり気に留めることはなかっただろう。でもそれはなんのエンタメにもならないし、そうして何も背負っていない自分が身軽で良いのかもしれないと思った。


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