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優しい未来へ月 ぶっ飛べ日(BEYOOOOONDS武道館公演のあった日)

「なんのために生きているのか?」と、もし今問われたら、「BEYOOOOONDSがいるから」と答える。BEYOOOOONDSが世界のすべてというわけではないから侮らないでほしい。もっと楽しいことをたくさん知っている。でも、基本的には今その時がスペシャルで心地よければそれでいいと思っていて、未来のために生きているという実感はない。なりたい自分みたいなものも強くあるわけではないし、ウェス・アンダーソンの新作をこの前みたばかりで、サグラダ・ファミリアは完成しない方が面白いと思ってる私を、それでも未来につなぎ止めているのがBEYOOOOONDSの存在だ。

一週間後に死ぬのが決まっていたら、それはそれでいい人生の終わり方を見つけられると思うから、それくらい前もって言ってくれれば、死ぬのも痛くて苦しくない限りそんなに嫌じゃない。だけど、BEYOOOOONDSが幸せを届けているときに自分が居ないのは悔しい。BEYOOOOONDSがいるから生きているというのはそういう感覚。

「どんと来いBE HAPPY! at BUDOOOOOKAN」をライブビューイングで見たの今、すんでのところでBEYOOOOONDSが幸せを届けている世界に居られている。

最高のライブだったのだが、それを5km離れた場所で、たかが視界の半分を占めるスクリーンに映された1920×1080ピクセルの映像と2chのスピーカーで感じていた私にはそのライブ自体の素晴らしさを語る言葉を持ち合わせていない。五感の問題だけではなく、現代では限られたアウラのある芸術としてのアイドルを楽しむのに、空間を共有していないのはかなり痛い。

それでも、会場と同じ時間を過ごしていたことは事実だ(システム上避けられない遅延に目をつぶれば)。BEYOOOOONDSと同じ時間を生きているのを感じる幸せは、会場の皆さんと同じくらい感じられていたのではないだろうか。今日あの時間にあのライブがあったことについて語るのならば許されるだろう。

そもそもアイドルは時間の芸術である側面がかなり大きい。ファンは過去を背負った物語を通してアイドルを見て、その未来がより豊かであるよう応援するのを楽しむ。いまどきそのまなざし方はアイドルに限らずされるものだが、若さを武器にして刹那を生きるアイドルにとって”現在”は常に重くのしかかる。むしろその現在性がアイドルの定義なのではないかとも思えてくる。

たいていのアイドルファンはその儚さを自覚しているが、目の前の愛しい存在の過去と未来にいちいち思いを馳せている暇などなく、頭のなかは「かわいい」「美しい」「かっこいい」みたいな一瞬の感情の連続で埋め尽くされることになる。そしてそんな存在が目の前に今存在しているありがたさが時折よぎり、はっきり言って”トぶ”

アイドルはそういう即効性の高い快楽を与えながら、過去と未来への言及を絶えず行う。だいたいはファンが知っている曲を歌うのであり、ファンもイントロを聞くたびに、ひとつのライブの構成を物語として解釈しながらこれから訪れる幸せを予感する。BEYOOOOONDSの場合はそれにとどまらず、それぞれの曲を今しかできない形で表現する。「We Need a Name!」は今歌えば、Seasoningsという名前を授かった喜びを表現することになるのだし、「元年バンジージャンプ」は一年ごとに歌詞を変えていく特殊な曲だ。若さゆえに短い時間に大きく変わっていくのだから、そんなことしなくても常にそれぞれの曲は演じられるたびに違う見え方をされていくはずだ。それでも自分たちのつくってきたものが過去になることを極端に嫌い、慣れることがないよう形式さえも揺さぶりつづけるのがBEYOOOOONDSの楽しさの源だ。

今回の武道館公演はそうして絶えず続ける更新を一つのライブのなかで行ってしまったことが革新的だった。今日披露した曲を再構成して新たにパフォーマンスしたあの時間には、BEYOOOOONDSのポリシーが凝縮されていた。ひとつひとつ過ぎていく時間に今はもう戻れないことを否定してしまったことはもしかするとアイドルの儚さを破壊することかもしれなかった。それでもあれをやる驚きと破壊性そのものが楽しい。

このようにあらためて深く考えなくても、BEYOOOOONDSのこれまでを知らない人が見ても、今回の武道館公演は楽しいものだったに違いない。ハムカツが天井から降ってくること、講談調の寸劇で曲と曲との間を埋めること。どれも批評するのがばかばかしくなる楽しさであふれていた。そういうただただ楽しい時間が武道館に流れていたことも期待していた"武道館公演"の破壊だったかもしれない。

そう、われわれが恐れるべきはあれが”初の武道館公演”であったこと。そこはどのアーティストにとってもキャパシティ以上の大きさをもった会場で、そこを目指すことは一つのゴールである。立った人は皆、自分にとって武道館がどういう場所であるかを意識しながらこれまでを振り返りこれからの決意を語る。だがBEYOOOOONDSはどうだったか?

「今私たちにできる最高のショー」を届けると誓いライブを始め、MCではそれぞれが「今BEYOOOOONDSでいられること」の幸せと仲間・ファンへの愛を語っていた。武道館という記号にまったくすがることなく、今の自分たちを表現することにめいっぱい時間を割いた。だがこれが日本武道館公演にふさわしくなかったかというとそういうことではない。それは彼女たちが日本を背負うアイドルだからだ。

日本の未来は暗い。それでもBEYOOOOONDSは「ニッポンのD・N・A!」で日本の過去を、「Now Now Ningen」で今を、新曲「虎視タンタターン」ではその未来を肯定する。そうして日本を勝手に背負い続けてきたBEYOOOOONDSがいま国民的アイドルでない今の日本は間違っているとまで感じられる。だが自ら語るように彼女たちのパフォーマンスは"寸劇"であり虚構である。するとBEYOOOOONDSは今の日本を否定しているのかもしれない。眼鏡の男の子のいる世界のようなフィクションとして彼女たちが歌うニッポンはあるのかもしれない。嘘みたいな現実の日本を嘘をもって破壊して「優しい世界」を現前させているのかもしれない。飛躍した解釈であることは重々承知のうえだが、やはりそういう破壊性をもったグループであることは間違いない。

西田汐里や島倉りかが言うには、辛いことがあったらBEYOOOOONDSが救ってくれるらしい。自分たちのつくるハッピーな時間に身をひたして元気になってくださいというつもりだろうが、実はそのやり方は科学的には正しくない。音楽療法には”同質の原理”と呼ばれるものがあり、それは「落ち込んでいるときには落ち込んでいる音楽を聴いた方が回復しやすい」という考え方で実験を通して効果のあるものとされている。辛いときにBEYOOOOONDSの楽しい曲を聴くのは逆効果なのか。それもまた実感できない。

思うに、BEYOOOOONDSをみて幸せになれるのは心から不幸を追い出すからではないか。目まぐるしく変わる曲調、情報量の多い歌詞、個性豊かなルックをしたメンバーたち。彼女たちは見る者の感覚を埋め尽くす。里吉うたのが考えてきたスピーチを飛ばしたように、BEYOOOOONDSと時間を過ごせば他のものごとが頭のなかを占める場所を失う。彼女たちがしてくれているのは回復ではなく忘却であるというのが一つ浮かび上がる仮説である。

過ぎ去る時間の一瞬さと人間の脳のもろさがもたらす”忘却”という不具合をBEYOOOOONDSは現状肯定のために使う。BEYOOOOONDSは「今が素晴らしい!」と歌っているようで今を破壊している。その冴えない今に紐づいている未来も同時に破壊してより”優しい世界”へと私たちを導いてくれる。現に今私たちはそういう見たことない未来を見ている。今回の武道館公演は誰の目にみてもゴールではなかった。BEYOOOOONDSが残したのは未来への期待であった。だがライブそのものは紛れもなく最高だったのであり、これ以上のものが存在することを想像できない。それでも信じることができるのはこの日本武道館公演をあくまでひとつのライブとしかとらえていない怪物たちのおかげである。

あの場所にいられなかったことは今でも悔しさでいっぱいだが、また再び最高のステージを見せてくれることを確信させられている今、その悔しさも見事に破壊してくれている。

武道館であれを見ていた人にもスクリーンの前にいた人にも、起こるはずのなかった未来は等しく訪れていて、その破壊が気持ち良いからライブビューイングも幸せな時間だったのかもしれない。この先に待つ、より幸せな未来へ扉を開いたBEYOOOOONDSは、このライブを見てない人、ひいてはまだBEYOOOOONDSを知らない人にも共通して体験しうる最高な未来を提供してくれたのであり、それは今を生きる全人類が幸福であるということだ。その未来を現実にするためには日本武道館のステージは小さすぎるかもしれない。

偉大な存在と時間を共にできる幸せを、一分一秒でも感じていたいから生きる。いつか終わることの悲しさに対してどこか身構えながら、その破壊こそがもっともBEYOOOOONDSらしく美しいものかもしれないと思うとさらにワクワクしてくる。

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