見出し画像

メンバー自己紹介① 吉冨 生楽 part2.

 前回は中学時代までお話しさせていただいたので、今回は高校時代から書いていこうと思います。ただ高校より後の写真があまりにも少なかったため,実家で飼っている猫の写真でも載せておきますので是非癒されてください。

我が家のマドンナ「チュラ」(清楚系女子)。
親に捨てられ,草むらで瀕死になっていたので吉冨家に迎え入れました(二匹目)。
こう見えてご飯の量が多いわけでもなく,ウサギのように毎日走り回ってもいます。

高校受験

 高校を選ぶ時,とにかく音楽を基準に考えていた僕は母と随分揉めました。
吹奏楽コンクールは「地区大会→県大会→支部大会→全国大会」という風に進んでいくんですが,僕が進学したいと思っていた高校は毎年支部大会に出場する程の強豪校でした(偏差値的にもギリ進学校の部類だったと思う)。

対して母は,僕が喘息を持っていたり色弱だったりと最初から就ける職業が絞られると考え,将来の選択肢が少しでも増えるよう偏差値の高い高校に進学させたい気持ちがありました。
そのために小学校の頃には家庭教師をつけてもらい,中学は3年間塾に行かせてもらっていたので,音楽だけを考えているんじゃ当然揉めますよね。

結局受験する高校は悩みに悩み,担任の先生も今までの生徒の中で一番時間がかかったと言っていました笑。

僕が三歳の頃から飼っていた猫「コロン」です。
去年に亡くなってしまいましたがもとても賢い子でした。

・高校時代
 
高校の吹奏楽部は中学のような上下関係の厳しさはなく,ゆったりと自分のペースで音楽ができました。

 とにかくいろんな曲の好きなフレーズを弾きまくりました(一曲丸々練習することは滅多にありませんでした)。クラシックに限らずポップスやEDM,レゲェ,ファミコンのゲームソングまで,それぞれの分野の知識は全くありませんでしたが好きなリズム,好きな音の運び方が体に馴染むまで弾きました。

そんな練習というか遊びをしていると,案外形になるまでは早いことに気が付いて中学時代に築いた基礎をようやく実感することが出来ました。

 ちなみに僕の弾いていたコントラバスという楽器は低音楽器で,普段は簡単な伴奏を担当することが多く,地味な楽器というレッテルが貼られがちでした。なので,僕の演奏を聴いて「こんな表現もできるんや!」と言ってくれたり,「どんな風に弾いてるん?」と真剣に聞いてくれるようになったりするのが,楽しかったし嬉しかったです。

 二年生くらいになると中学の頃同じ部活だった子が音大を受験するという話をよく聞くようになりました。僕は,音大に行ってプロになりたいという気持ちと,特別裕福な家庭という訳ではなかったのもあり,偏差値の高い国公立の大学に行くべきという責任感のようなものを感じて葛藤していました。
そんな風に悩んでいた時にコロナウイルスが流行しました。
コンクールもなくなり,吹奏楽は飛沫感染が危惧され活動できなかったので,楽器も一切弾けなくなってしまいましたが
個人的には生活の主軸を音楽から勉強に完全にシフトできるいい機会だなと思い,その時に音楽大学に進学することを諦めました。

 とはいいつつ音楽欲は止まるはずもなく,諦めてからも勉強と同じくらいの時間を音楽に費やし続け,案の定受験は失敗しました笑
そして母にもう一度挑戦させてほしいと頼み込み一年浪人することになります。

高校時代。スマホの学習アプリで勉強しながら音楽を聴いていました(←浪人の原因)。

・浪人期

 浪人した一年間は,人生で一番葛藤した期間でした。

僕が浪人することを決め予備校に通い始めた頃,母から話があると呼ばれました。内容は「去年から癌を患っていた」というものでした。高校三年生の間は僕が受験に集中できるよう,黙っていてくれていたそうです。ただ手術をしなければいけない時期が迫ってきているのもあってそのタイミングで告白してくれました。

 患っていたのは癌の中でもほとんど事例がない病気で,状態も中々厳しいようでした。母本人は,心配をかけないようなんともないような表情で話していましたが,相当勇気いる告白だったろうと思います。

 理解が追い付かず言葉を失いました。

 普段弱った素振りを見せない母が,声を震わしながら病気について説明しているのを見ていると,本当に現実なんだなと思わされました。そして今までの自分の行動が本当に正しかったのかと何度も何度も考えました。

「予備校に通うお金は,本来母のために使うべきものだったんではないか」「母から要求されることなんて滅多にないのに,高校受験の時音楽を優先したのは間違いじゃなかったのか」「僕に気付かせないようにするために手術が出来なかったんではないか」など…同じことでも何度も考えました。
ただ,母は僕がしたいことをするべきだと心から思ってくれているとちゃんと伝わっていたので,後悔するべきではないことも分かっていました。
なのでただひたすら考えていました。

 母が入院してから手術まではあっという間でした。母は重症病棟に入院していたのもあって,コロナウイルス対策はより厳しく,一度も会うことが出来ませんでした。

その重症病棟では奥の病室に進むにつれ末期の癌患者や助かる見込みの少ない患者が増えていきます。母は重症病棟の中でも一番奥の部屋に居ました。

 母自身,奥の部屋に移動した時点でもうだめなのかもしれないと思ったそうですが,10時間に及ぶ手術は無事終えることが出来ました。

ただ病気自体が完治したわけではなく,手術内容は病巣を取り除きリンパ節郭清術の手術も受けた為,リンパ浮腫も発症してしまい動き過ぎると浮腫みがひどく,激痛が走るようで闘病生活は今でも続いています。

 母の病気は僕の中にあった当たり前を壊し,今を見つめ直すきっかけになりました。母のことはもちろん,人とのかかわり方(感謝を伝えられてるのかなど),自分自身についてもです。

その結果,偏差値だけで大学を選ぶことはやめ自分の学びたいことが学べる大学を目指すことに決めました。

母が入院後念願の蛇の「ラニちゃん」を飼い始めました。
最初はぎょっとしましたが,
吉冨家は長女以外みんな猫アレルギーなので,毛も匂いもない蛇は飼いやすい動物だなと思いました。

アルクエスト加入

 一年間の浪人を経て,僕は島根大学へ進学しました。
大学に行ったら絶対にしたいことがありました。それは隠岐に行くことです。隠岐のことはメンバーの権藤有作(以下ゴンちゃん)に会うたびに聞いていました。(高校生の頃からゴンちゃんがチームで世界一周に行くということも聞いていました。ただ,ゴンちゃんは日本一周も成し遂げたりしていたので,自分とは縁のない出来事なんだろうなと思っていました。)

彼が写真が上手なのもあり,島で撮った写真からは独特な雰囲気を感じました。その雰囲気を体感してみたいとずっと思っていました。
そして夏休みにゴンちゃんに隠岐に連れて行ってもらいました。

 初めて島に着いた時とにかく静かだなと思いました。
波や木の音,鳥の鳴き声が澄んで聴こえて,人の話し声すら自然に馴染んでいるような不思議な感覚でした。高校を卒業してから人と話すとき以外はイヤホンを必ずつけていたのに,隠岐では音楽を聴いている時間がもったいないとまで思いました。

人も幸せそうで,魚も雀も体はまん丸で,カラスの羽根にはつやがあって,この島は生き物を幸せにできる何かが流れているんだなと感じました。

島で朝起きた時に窓から見えた景色。



 僕の名前は母が付けてくれました。
実は母は今回二度目の癌で,一度目の癌は僕を授かったのをきっかけに見つかったそうです。死を意識したときに付けてくれた生楽(おうら)という名前には「生きることを楽しめるような人間になって欲しい」という意味が込められています(生きることを楽しめている人にはオーラがあるとも言っていました)。

 今までは「楽しく生きる」と「生きることを楽しむ」の違いが想像しきれていませんでしたが,島の人達を見ていると「生きることを楽しむ」の一つの正解を見たような気がしました。島は小さくて人も少ないけれど,島に居ると自分の生きていた世界のちっぽけさに気づけました。

 島から帰ってきた後も島での感覚が忘れられず,もっと島にいて何かを感じ取りたい,島で育った人たちと話してみたいと思うようになりました。
そんなこと考えているうちに気付けば「俺も世界一周にいきたい」と思っていました。
 
同じ景色をチームの人たちはどんな風に捉えるんだろう,その考え方に触れられればもっと成長できるんじゃないかと思いました。

 そして島から帰ってきたその日のうちにゴンちゃんに連絡し「Alquest」に入れてほしいとお願いしました。

 以上が高校からAlquest加入という今に至るまでの経緯です。
途中中々に重い内容となってしまいましたが,生きることを楽しむためがむしゃらに頑張っていきたいと思います!読んでいただきありがとうございました!

 余談ですが母はもともとコーヒーに携わる仕事をしていたのもあり,今では
コーヒーに特化したカフェを経営するぐらいまでに回復しています。
いろんなタイプの最上質のコーヒーを母が淹れているので,是非好きなコーヒーを見つけに来てください!

季節のフルーツを使ったシフォンケーキとコーヒー


(https://instagram.com/luana_3224?igshid=MTIyMzRjYmRlZg==)





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?