どうしようもない駄文書きの「どうしようもなさ」とは

ごきげんよう
ぬ?(noteで挨拶なんかしたことあったかしら)
わたくしです。
今回は自分語り回といたします
逃げ腰で140字で何といった判別のつかない文章を書き逃げしていつものごとくメモとして残そうと思っていたんですが、あまりに不親切な気もしたので、記事フォームの方を開いたらなんか構想が今まで抑圧してた内容からか、膨れてしまって予想外の始末。自分でも驚いております。思えば遠くへ来たもんだ。

私とnoteの馴れ初め(警戒心が解け、懐くまで)

ここに腰を下ろしてもはや4ヶ月経ちました。
はじめはここで文章を書いていく気はそこまでなかったんです。
某匿名日記が共に運営しているブログサービスが自分の気質にあってると思ってたので。

それでも、やっぱり読み手としてはnoteのほうが心ときめく記事と出会う機会が多かったので、チラチラ書くうちにこっちでも書くようになってました。

ずっと嫌いだったんです、この「note」ってやつが。
関連記事システムが面白い記事をレコメンドしすぎて、僕の体力気力を根こそぎ奪って離さない訴求力をもっていたこともそうですが、

主に目につく書き手が
「品が良くて
 キラキラさがチラついて
 はっきり物事を言える自信と
 根拠となる実生活の体験があって
 僻んでない頭の良さが文の良質さに繋がってる」タイプの人たちという印象だったからですね。

僕とは違いますね。彼らは学校をちゃんと乗りこなしてますもんね、多分。ほら、僻み始めましたよ。(こういう芸風でいくのか?)

とまあそういう書き手が主になるようなブランディングをしているサービスなのかなという印象でした。(広告を表示しないという誌面もその印象を強めていたでしょう)
でもまあ時を経て漁っていくうちに、もっと深みがあるサービスだということがわかってきました。

レコメンドだけに乗っかっていたら「地面(比喩)」に着地できないですよね。「いいね」の上昇気流に乗った、大多数の人に刺さる優秀な記事だけ見てても、その界隈その他大勢のゆるやかな「暮らし」の雰囲気を感じられるような記事には出会い難い訳で。
ご近所さんって感じで気楽に読める人に出会いたかったわけです。いいねが3桁もついてるシルクロード記事だとどうしても無意識に聴衆の存在感を感じてしまいます。
適度な人気(ひとけ)が僕の求めた雰囲気だったわけです。
もともと個人ブログの生活感のあるひとりごとを読むのが僕のお気に入りだったわけですから、同じ「note」の界隈の中でも探す場所が違ったわけです。そして、アカウントをつくらず、気ままに「見る専」をしているままでは当然 僕の好みの方とは(レコメンドシステム的に)出会えなかったわけで、表面的な触れ方である種の勘違いをしていたわけです。このプラットフォームに対して。

はい。
こうして、そこまでこのプラットフォームでの投稿に際し、いままでつくりあげていた居心地の悪さ(異邦・冷ややかな視線 感)を露骨に感じることなく、試し試し、盗み盗み、この投稿フォームに何かしらを飾ることにし始めたわけです。がしかし、どうにも据わりの悪さというか、自分の心の根っこに暗黒の塊がいるという気配を感じ取ってしまうのです。
特にココ最近、好きなアニメの脚本をベースに一次創作をしてみたりしなかったりと熱を入れ始めたこの頃、特に思います。知らなかったけど気づき始めます。

己に秘めたる「自己嫌悪の念」に。

そしてようやく本題です。(これを140字で済ませようとしてました)
文体を変えています。


ここはインターネット大自然の一角
いろんな人が分け隔てなく自分の屋号を持つことができる時代の中途

象徴空間としての三次元情景が比喩として広がる
そこはなぜかイタリアの広場のような風格をなしていたりした

なぜ? それは願った者がいるから
このイメージを膨らませ、幻影の中に自分をおきたがった「主」がいたから
彼は、体だけ成長してしまったようなイキりたがりのガキンチョの性根をしていた
彼にとっては画面上の表現行為が唯一だったので、それを現実に置き換えることをつよく求めた
この世にいる実感を、影のある実体として他者の目に描かれることを望んだ

昨晩の様子を見るに、人間関係は衰退の一途を辿っているようで、保存したお気に入りの映像物語を見ることで1日を潰すことが多いようだった

そんな彼は時々、このインターネット街路に流れるリズムにのる
腕を広げて回り舞いながらステップを踏んで外へ出向き、素敵な息吹がふき込まれた「文字の絵画」を目にしたときは極上に舌鼓を打ち、心ときめかせた

それらとの出会いを経て、あるときは自らに眠る想像力が掻き立てられ、自分も似たようなテーマで筆をとることがあった
そういうときにしか、彼は自分の心のうちを覗か(け)ないようだった

飽きと面倒さに追われるいたちごっこをしながら
自分の気持ちを、苦悩を、硯を擦って筆をとり台紙にちゃらちゃらと書き、一息つく

改めて見ると少し寒気がする文章だったので、適時書き直した(あれ、墨汁なのでは?)
当初の想定より随分時間をかけたことを、視野狭窄の熱中が冷めた頃、客観を司る時計の文字から彼は告げられた

その文章は、自分が普段見ない角度から自分を取り出したと思えるような描きぶりだった

すこし自分を見直したなぁ(意外といい文章書けるじゃん、オレ…)なんて鼻をこすりつつ思いながらも、後々見返すと目も当てられない恥ずかしさが襲う…なんてことが過去にあったことは今は思い出さないようにした

そしてここからが彼にとっては大事なようで
その出来上がった台紙と過去の出来合いの文章の数枚の作品を並べて、観覧者に見てもらうための「空間」を想像の中に描画するのだそう

自分の情けなく、読み心地の良いわけでも決してない作品を怠惰に世に送ることへのわずかながらの贖罪の意識が彼をそのような虚飾行為へと走らせたのかは定かではないが
彼は自分という空虚さをしばしば他人の創作物で埋めようという試みを辞めることができないでいた
それ自体の空虚さを知ることは、一次創作をする中で自分に何も詰まってないことを認識する中でいやいや突きつけられることも最近は増えたそうだが

それはさておき彼は空間の用意に耽る
己が居心地がよいだろうと感じたのか、脳に降ってきたイメージは
「赤瓦と白漆喰の素朴な西洋風ギャラリー」だった

ちょうど西洋のしがない画描きに対して、そこまで深追いするわけでもない無教養な日本のあほまぬけが持つ無責任な理想がつくらせた「こんな設備をもって暮らしていてくれたら嬉しいな」というような憧景の具現だった

空間を固定したら、次はようやく自分の吐き出したものを置く作業
深いこげ茶色敷かれたきしむ床の小部屋に、立てかけるためのイーゼルと共に作品を置いて配置を整える
「簡易なギャラリー」

美大・芸大の卒業制作展に訪れたときはなんだか やけに かしこまっていたことがふと思い出されて、あえて乱雑なふうにイーゼルを配置することにした

まだあたりは昼過ぎ、天気は良好
コーヒーがおまけ程度に入ったミルクを口にする

何代も前の先人たちが敷き詰めたであろう石畳の通りから
あたたかな足音が行き交う
白枠の木製の窓にかけられたカーテンをぬって優しい光が差し込む部屋に、空気の振動が伝って人通りがある安心を耳と背中に感じる

こっそりと入口付近の階段の裏側の影から覗く、小心者を装う醜悪な下賤人
それが逃れようのない彼の正直な姿だった
彼にはこれ以外に自分の潜在的な交流相手を待ち受ける方法を持ち合わせてはいなかった

インターネットの通行人に、自分のなけなしの文章たちを撒いた空間をのぞいてもらって

自分がこの世界に存在している実感を得られないかと画策する

が、その内面には

「分かってほしい…!」 VS 「分かられてたまるかってんだ」

…そんなバトルが、濁った古い油をしたたらせながら不毛な自己攻撃を巻き起こしている

彼は後にその現実に向き合うことになるのだが、それはまた別のお話。


ぷすん
そんな終わりで今回は閉幕とさせていただきやす
ごひいきにぃ〜

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