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考古学入門〜遺跡発掘調査裏話〜

 私は放送大学の授業を受けていますが、以前考古学者 山岸良二先生の面接授業を聞く機会がありました。
先生は「世界一受けたい授業」や「林修の歴史ミステリー」などにも出演されています。
実際多くの発掘調査に携わっている先生の講義は、発掘調査そのもののお話はもとよりその裏話がとても面白かったです。

 世界で多くの発掘が次々と行われその度に歴史が変わったり説が変わったりしてきましたが、その過程を先生は全部見てきているのでとても興味深かったです。

 エジプトのピラミッド、邪馬台国、登呂遺跡、高松塚古墳、吉野ヶ里遺跡、軍艦島etc.盛り沢山でしたが今回は縄文土器の名付け親 エドワード・S・モース博士のお話を取り上げます。

 明治時代に来日したマサチューセッツ州出身のモース博士は海洋生物学者で、元々は太平洋西海岸とアジア東海岸にしか生息しないと言われていたシャミセン貝の研究で来日しました。

  5年前に開通したばかりの汽車に乗って東京に向かう途中、桜木町から新橋は当時単線で必ず大森駅で通過待ちをしたそうです。
待ち時間に何気なく外を見ていると、山を崩して作った線路脇の土の山から貝殻がたくさん見えたそうです。
 ここには貝塚があると信じたモース博士はすぐに申請をして学生達を連れて発掘調査が始まりました。

 その貝殻の山を貝塚だと判断できたモース博士がいたからこそ今の「大森貝塚」が発見されたと言うことです。

 その頃日本の近代化が進み、それに伴い海外からガンジー他先人を呼んで東大で講義をすることを試みていましたが、モース博士もそのひとりでした。

 竹橋にある学士会館は海外から招いたトップクラスの方々の宿泊場所になっていたようです。
モース博士も最初はここに泊まり本郷にある東大までは人力車で送り迎えされたそうです。
187cm 106kgの体格のモース博士を人力車で送迎するのは大変なことだったでしょう。
心優しいモース博士は途中で散策をしたいから歩くと言って人力車を返したそうです。

 日本文化にも興味があったモース博士はお茶の水界隈をくまなく散策して日本が大好きになったそうです。

  帰国する際は日本で使っていた家具や台所用品などほとんど持ち帰ったので自国にモースコレクションとして残されています。
そこには明治時代初期の日本の家具や生活用品が残っているので是非見てみたいと思いました。

 それにしてもモース博士がその時代に来日して大森駅での単線の待ち時間がなければ大森貝塚も見つからなかったでしょうし、それを貝塚と判断できなければ未だに発見されていなかったかもしれないので本当に偶然の出来事です。

 昔神保町に勤めていた頃、学士会館もたまに行きましたがそこが外国人のVIPを招待する屋敷だったとは知りませんでした。
まして大森貝塚で発見された土器に「縄文土器」(Code marked potary)と名付けたのが外国人のモース博士だったなんてそんなことを歴史で習ったのかも忘れていました。(弥生式土器は東大の理学部の下、弥生町で発見されたからというのは聞いたことがありましたが)

 その後全国で次々と縄文土器が発見されその時代を縄文時代と呼ぶようになったわけですから時代の名付け親でもあるわけです。

 どちらにしてもこんなに貢献したモース博士のことを詳しく知ることができて、今さらながらとても勉強になりました。

 山岸先生は現在も発掘調査を続けられていて、最近ではベトナムの5つの大理石でできていると言われている五行山やクーランチャム島で大発見をされたそうです。
遺構や白磁、イスラムガラス、ペルシャガラスなど南蛮貿易時代のものが何百と発見されました。
 五行山と言えば孫悟空が500年間封印された山として伝説に残っています。
満点の星とサンゴ礁の美しいクーランチャム島も行ってみたいです。

縄文土器と先生所有の銅鏡や土器、埴輪

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