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平成旅情列車③ 人吉の町と球磨川に癒される

人吉の町と球磨川に癒される

     肥薩線

 九州の熊本県から宮崎県を経て鹿児島県に至る肥薩(ひさつ)線は、三つの顔を持つローカル線である。八代(やつしろ)~人吉(ひとよし)は日本三大急流のひとつ球磨川(くまがわ)に沿って走る「峡谷のローカル線」。人吉~吉松は標高の高い場所を往く「高原のローカル線」。吉松~隼人(はやと)は古い木造駅舎も多く、のどかな景色が広がる「農村のローカル線」。いずれも、とても魅力的な顔である。
 初めて肥薩線に乗ったときは八代でも隼人でもなく、途中の吉松から乗車した。宮崎県の都城(みやこのじょう)から吉都(きっと)線でやってきたからだった。吉松から人吉を経由して、球磨川の流れに沿うように下流の八代を目指した。沿線を代表する町である人吉では乗り換えで降りる機会はあったが、ゆっくりと町を眺めるほどの時間はなかったので、二回目の肥薩線訪問では人吉に泊まることにした。平成七年(1995)の九月上旬の話となる。

 八代を15時31分に出た肥薩線の気動車は、球磨川と合流すると川に合わせて蛇行を始めた。線路は谷の斜面にへばりつくように接し、その沿線は谷が深い険しい地形とあって人家は非常に少ない。時折、道路に接するように小集落が現れ、そこに駅がある。そんな風景が続いていく。
 斜面に立つ緑の木々に包まれた列車は八代に近い区間では球磨川の右岸を走っていたが、川を渡って左岸に出たあたりから人里離れた風景の中を往くようになる。川を遡っていくほどに谷は高くなり、川の水量も増えていった。川面はエメラルドグリーンに輝いている。どこかで降りてみようと思い、駅名に惹かれて球泉洞(きゅうせんどう)を選んだ。八代から五十七分の所要時間にある駅だ。川の両側は高く斜面がそびえ、午後の太陽は既に斜面に隠れている。
 駅舎は山小屋のようなログハウス調で、小ぶりながらも観光客を意識した造りとなっていた。もっとも、列車から降りた乗客はほとんどいない。水量が多く川幅が広い谷に、単線の線路と細い道路が肩を寄せ合い狭い土地に延びている。
 駅名になっている球泉洞は球磨川の対岸にある鍾乳洞で、吊り橋を渡っていく。対岸には国道が通っているが向こう側も家は少なく、観光地として整備されている鍾乳洞を訪れる人のための駅といった趣きがある。川幅の圧倒的風景に気圧され、吊り橋を渡ってまで行く気もせず、間もなくやってくる上り列車に乗ることにして駅前周辺を少し見てホームに戻った。

 16時33分、やってきた八代行きも先ほどと同じように一両だったが、先ほどの下り列車がステンレス車体の二人掛け座席の新しめのものであったのに対して、こちらは国鉄時代製造の四人掛け座席の車両だ。車内は空いている。五分で着いた隣駅の白石(しろいし)で降りる。
 白石駅は向かい合わせにホームがある行き違い可能駅で、駅舎はとても古い木造駅舎だった。白い壁に茶色の柱を構えた、旧家のような重厚な存在感を持つ板壁の駅舎は、明治四十一年(1908)の肥薩線開業当時からの駅舎だそうである。
 駅前は道路を挟んで球磨川が流れ、付近に集落はあるが、人も車も行き来せず静かだった。晩夏の夕刻、山影に太陽が隠れて薄暗くなってきた待合室に佇む。物音のしない静かな無人駅は、待合室の木製ベンチに座っているだけで心が落ち着く。壁も、戸も、使われていない窓口も、すべて年代を重ねた木の薫りがした。蒸気機関車が停まったら似合う駅舎だなと思えるが、実は肥薩線を走るSL人吉号の停車駅になっている。JR関係者も、さすがわかっている。

     人吉の町

 17時18分、薄暗くなってきた白石駅のホームに一両の気動車がやってきた。先ほど乗った列車と同じく国鉄型の白と青帯の単行列車だ、夕方に地域の中心となる町に向かう列車だから混んではいない。
 変わらず球磨川が線路に寄り添い、知識がなければ、この先にまとまった市街地のある町などあるのだろうかと疑問に思える風景だが、やがて谷が開けて盆地となった。山が離れて西日に照らされ広がる農地を眺めながら列車はゆっくりと走り、白石からちょうど三十分で人吉に到着となった。
 人吉駅は平屋の駅舎を持つ割と小ぶりな駅で、あまり広くはない駅前ロータリーから駅前通りが横に延びていく。この道は球磨川と並行していて、商店と商店の間から川原が覗けたりもする。
 今夜の宿はこの通り沿いにあるホテルで、ホテル名は町の中心といった趣きがあった。屋根付き歩道の商店街は閉まっている店が少なくない。夕陽が道を照らし、昭和な鉄筋造りの建物が並ぶ商店街が黄昏色に染まっている。そんな一角にホテルはあった。周囲と同じように、ホテルも年数を重ねた構えを見せてくれている。

 ひと休みしているうちに夜となった。人吉の印象は想像していたよりも小さい町に思えたが、そういう町は大抵、飲食店にハズレがなく良いものだ。
 まずは町中にある人吉温泉の共同浴場に行く。構えは町の銭湯という飾り気のないもので、観光向けというよりは住民のための湯といった感じで、そこがまたいい。
 中に入ると、浴槽の一部が岩風呂になっていて、球磨川の谷をジオラマ風に再現して、しっかりと観光客へのおもてなしの演出もされている。のんびりと湯に浸かっていると、疲れが飛んでいく。実は昨夜は夜行列車で南宮崎から博多に向かい、今朝は博多から熊本までやってきたのだった。
 風呂上がりに人通りのあまりない商店街を歩いていると、良さげな店があった。小料理の看板を掲げたその店に入ってみることにした。
 店内は小ざっぱりとした造りで、カウンター席に腰を下ろすと、店の主人が「お客さん、東京からですか?」と聞いてきた。神奈川県からですと答えると、「一年に一回、東京から来る常連さんに似ていたもので」という。人吉の鮎の味に魅せられて、毎年この店に食べに来るのだという。私も当然、鮎を注文して球磨焼酎のロックで味わった。天然の鮎は身の弾力があり、苦味のない濃厚な川魚の風味があった。はるばる1000キロ以上の移動をして食べにくる人の気持ちがよくわかる。

     くま川鉄道

 人吉は鮎が名物である。人吉駅では「鮎ずし」という駅弁を売っている。翌朝、私は駅でその駅弁を八百五十円を払って購入し、JRではない鉄道に乗ろうと計画した。
 駅に向かう前に人吉城に足を運んだ。駅や商店街の市街とは球磨川を挟んだ南に位置する平山城で、築城時期は鎌倉時代に遡るという。明治には西南戦争で西郷隆盛の率いる薩摩の軍勢が拠点とし、人吉城も戦場となった。
 城跡は石垣と水堀が残されている。天守のあった城ではないので模擬天守は築かれていない。城跡は広大な公園となっていた。
 人吉駅で鮎ずしを手に入れ、人吉を9時18分に出る湯前(ゆのまえ)行きに乗る。これは肥薩線ではなく、第三セクター鉄道の「くま川鉄道」の列車で、単行運転の車両の車内はロングシートだった。
 くま川鉄道は国鉄湯前線を第三セクター化した鉄道で、人吉~湯前24・8キロのローカル線は、人吉盆地の東を球磨川に沿いながら走っていく。
 人吉の町を出ると、遠くに山並みを見ながら農村を往く眺めとなる。肥薩線と比べて絶景と呼べるような車窓ではないが、青空の下、のどかな景色に心はなごむ。駅弁を食べながらぼんやりと窓外を眺めているうちに9時58分に終点の湯前に着いた。駅名から温泉がありそうに思えたのだが、駅周辺にそのような施設はなく、駅前にあった「まんが美術館」という施設に入ってみることにした。
 入館料三百円のこの施設は、湯前出身の漫画家那須良輔の記念館となっている。那須良輔は戦前に児童漫画でデビューしたのち、戦後は政治家の似顔絵などを描いた社会風刺漫画で活躍をした人物だと知る。
 美術館の係員は親切で、ビデオも見せていただいた。館内には原画などが展示され、漫画図書館もある。駅前というアクセスのよさもあって、町の力の入れ具合が伝わってくる施設だった。
 湯前は行き止まりの終着駅なので、ここから人吉に戻る行程となる。11時28分の人吉行きは変わらずの単行だったが、この車両はセミクロスシートだった。球磨川と山を眺めながら、帰りは四十四分の旅。青空の下、人吉の町が近づいてくるとくすぐったい懐かしさがあった。

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