見出し画像

ノートを携えどこまでも

Evernoteの日本法人が解散するというニュースを読んだ。もうかれこれ10年以上、主には料理のレシピの保存のためにこのアプリを利用していた私は、とりあえずサービスが継続的に使えると聞いてほっと胸を撫で下ろした。最近は利用も減っていたが、追々コンテンツの引越しも考えなければいけないだろうと、レシピ以外にも書き留めていたものを読み返してみた。

それはタイムカプセルだった。いつどのように出会ったのかも、とうに忘れた過去の自分からのメッセージが、一度手元から離れ、そして戻ってくる。当時私を揺さぶったであろう言葉は、今、当時とは異なるリズムでまた私を揺さぶるのだ。

高校生くらいの頃から心に響いた本のフレーズ、人が語った言葉、天啓のように降りてくる自分の思いを小さな厚いノート書き留めていた。その習慣は大人になるまで続いたが、その内容があまりにも「自分すぎた」ため、分身とも言えるそのノートを同族嫌悪のように疎ましく思い(しかし「自己嫌悪」とも違う気がする)止めてしまうのみならず、いつか処分をしてしまった。振り返るとなんともったいないことをしたのかと悔しい気持ちになるが、当時の私は自分ぽさの何もかも許せなかったのかもしれない。

今、その自分ぽさを取り返して、不安や恐れと勇気をもって明らかにしていきたいという欲求が湧いている。居心地の良し悪しはともかく、自分の居場所は自分の中にしかなく、自分から目を逸らして世間とうまくやったところで、満たされないものを感じていることに気づいたからだ。

当時Evernoteにメモを取ったのは、その葬られたノートの代わりだったのだろう。そして2ヶ月ほど前からこのNoteにエッセイを綴り始めたが、続いていくとまたあの時のノートのような、タイムカプセルのような役割を担うのだろう。当時は自分にのみ閲覧を許した言葉の数々を発信することが、もしかしたら私の修行になるのかもしれない。書き留めた言葉などもこれからまた出会い直したい。

そこにたどりつこうとあせってはいけない。
「そこ」など、どこにもないのだから。

本当にあるのは「ここ」だけ。
今という時にとどまれ。
体験をいつくしめ。
一瞬一瞬の不思議に集中せよ。

それは美しい風景の中を旅するようなもの。
日没ばかり求めていては
夜明けを見逃す。

ネイティブ・アメリカンのことば
過去のEvernoteのメモから

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?