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私は今まで、何を書いてきたのだろう

今日は、書くチャレについて。
そこを起点に、私の思ったこと。

みんな書きたいんだ!

時間の許す限り、noteの投稿を拝読している。
ネットで検索して出てくるブログやサイトの情報って、ぱっとみ誰が書いているのかわからない。
疑い深い性格の私は、なんとなーく怪しい人を見る目つきで読んでしまう。

でも、書くチャレに参加している方々は、子育てなど生活スタイルの似ている方が多いのかなと推測している。
スタート地点は似ているはずなのに、書いたものは全然似ていない。書き方も、興味関心も、人それぞれ。
でも、「書きたい」という気持ちは、みんな一緒なんだ、とぼんやり思った。
知らなかった、みんな書きたいんだ。

これまで何を書いてきたのか?

私の話しになりますが、「名を名乗れ」と言われたら、消え入りそうな声で「ライターです(小声)」と答えている。
というのも、正直私は何を書いているのか、よくわかっていない。
ただ、書けるものを探し続けて浮遊してる感じ。何者にもなれていない。

情報をまとめる

唯一、得意かもと思えているのが要約。
ここには、いつも先に情報がある。

この一年、膨大な時間を費やして何十万字以上の文字を書き連ねていながら、一文字も自分のことについて書いてはいない。
一文字も。
その代わり、一度頭に情報を入れ、咀嚼して、取捨選択して、強弱をつけて、もう一度外に出す。
私が解釈したものを提示する。

もう私のことなんて、忘れちゃったかな。

イメージは、文字による図解。
文字を使って、読み手の頭の中に、体系立てて物事の立体感を出していく。
最初に問題があって、解決するための答えを提示する。

相手が食べられる大きさにしたり、味付けを変えたり、ときには、お皿の色やテーブルレイアウトも変えたりしながら。読み手が迷わないように、説明しながら、連れて行ってあげる。
こっちだよ、と旗を振りながら。
ときにはスキップをして、ときには厳しい顔つきで。

記名記事ではない。
さらに、実際に読まれている場面に出くわしたことがないから、本当に役に立ってるのか自信がない。
クライアントはOK出してくれるけど、エンドユーザーの顔が見えないんだよなぁ。
現実に変化を起こせているのだろうか、、、

今度、探して会いに行ってみるか。
もう私のことなんて、忘れちゃったかな。

うまく書きたいと思ったことはなかった

PCやスマホが普及して、文字を打つ機会が増えた。
でも思い返すと、うまく書きたいと思ったことはない。不思議と。

その代わり、あーーー!この面白さを誰かに伝えたい!!!!と信じられないほど強く思ったことは数え切れないほどある。(というか、今もこれは変わらない)
今日あった出来事、あのときの気持ち、どうして今私しかいないんだ!こんなスゴイことがあったのに、誰とも分かち合えないではないか!!!
消したり書いたり。
思い返せば、それだけはたくさんやってたな。

なぜ、生きるのか?

いや、だから書くんじゃなくて誰かに話しなさいよ
と、またセルフツッコミしてしまう。
私は、なぜ書くのか。話すのではなく、なぜ書くことに執着しているのか。

先日読んだ、海外の哲学者さんの本で
「なぜ生きるのか?」というパートがあったんだけど、そこには「生きるために、生きるのです」って書いてあった。
「生きることが、唯一価値を生むことなのだから」と。

私が「書きたいから、書く」のは、無意識に、これが唯一の価値を生む(と自分が思える)行為だからかもしれない。

振り落とされても、しがみつきたい。
フラれても、つきまといたい。
もういいやと心から思えるまで、言葉にしがみついていきたい。

そのためには、何者にもなれていない自分を、まずは受け止めねば。
なかなかに、ハードだ。

はりきってコーヒーを飲ませていただきます!