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ピート・シェリー/ルイ・シェリー『ever fallen in love-the lost Buzzcocks tapes』全訳(6)

パンク登場前

 

ご出身のレーはマンチェスターの中心から15マイル離れた所にあります。御幼少の頃はどんな街でした?

 

レーは当時石炭産業の街だった。近所には30か40か所の採掘場があった。父はアストレイ・グリーンにある鉱山で働いていた。母はアストレイの採掘現場で育った。で、北部ね。どんな感じだったかな・・・・。僕の最初の就職先はイギリス石炭庁だった。[1](訳注:イギリス石炭庁the National Coal Boadの設立は1946年。国営化された石炭産業の運営が目的であった。現在は民営化されている)。

 グラマー・スクール一年生のときはまだレーには一本だけ地下鉄が走ってた。週に3シリング小遣いをもらってた(今なら15ペンスの価値だね)。往復の切符代が2シリング11ペンス。1ペンス余るけどこれだけじゃ、まともな買い物なんてできやしなかった。ルイス・デパートの食品売り場をうろついちゃチーズとかパイとかの試食をねらってた。図書館もハシゴしたよ。中央図書館やジョン・レイランズ[2]とか。あと美術館。モズレイ・ストリートにある画廊に行っては前ラファエロ派の画を眺めていた。そういうタダで行ける所にはしょっちゅう通ってたっけ。

 十代も半ばというときに鉄道が廃止になって、バスを利用することになった。街にはレコード屋がたくさんあった。今はアンデイル・センターになってる場所だったよ。レコードはスリーヴを見るだけで我慢していた。買うカネなんてなかった。

 友だちと連れ立ってはマンチェスターの街をよくほっつき歩いた。ディーンズゲイトにあるケンダルズっていうデパートには流行の服を売るブティックにレコード売り場もあった。ウェイ⁻インっていう名前で。そこをぶらついてはかかっていた音楽を聴いていた。好きだったのはクリームの「Badge」。何時間いようが買い物をしようがしまいがお咎めなしだったね。デヴィッド・ボウイの「THE MAN WHO SOLD THE WORLD」もあった。ボウイが女装しているカバーのヤツだ。レーで買い物をするならウールワースだったね。品揃いじゃあそこが一番だった。マンチェスターではね。

 僕の小さかった頃のマンチェスターは音楽ではリバプールとシノギを削っていた。六十年代にはたくさんのバンドがリバプールから生まれた。ホリーズ、ハーマンズ・ハーミッツ。皆がよく知ってる名さ。それに「トップ・オブ・ザ・ポップス」はディズベリー[3]で収録をしていた。BBCの看板番組がロンドン以外の所で収録をしてたんだ。大変なことだったんだよ。

 

パンクの初期の頃ですが、マンチェスターの夜はどんな感じでした?

 

マンチェスターでパンクの格好をして、いやパンクでなくても目立つ格好をしようもんなら、まず出歩ける所はなかったね。女装趣味の芸術家連中と昵懇だった男と同居していた時によくオールダム・ストリート裏手の外れにあった、ディケンズっていうクラブに通ったもんだよ(今はマンチェスターのトレンディなノーザン・クォーターさ)。クラブの最上階にはゲイ・バーにオカマ・クラブが入っていて歓迎されたっけ!

 

あれからマンチェスターもずいぶん変わったんじゃないですか?

 

当時のマンチェスターの、今ノーザン・クォーターとなってる所はアパレル業界しかなくて沈滞してたね(マンチェスターの産業といったら織物業と衣類関係しかなかった)。建物は煤煙でくすんでた―そんな建物、今はヴィクトリア駅のレンガとストレンジウェイズの尖塔だけになってるけど。日曜日なんか街の中心はガラガラ。ゴースト・タウンだった。今のオフィスはリース契約になって活気が戻ったし空き家もなくなった。空き部屋も見あたらなくなったしね。

 バズコックスは1999年暮れにノーザン・クォータ―にあるプラネットKで演奏した。クリスマス・パーティとしてね。プラネットKって元は家具屋だったと思う。あのオールダム・ストリート界隈は華やかになった。今じゃ世界中から音楽愛好家がやってくる。メッカさ。きれいな街になったもんだよ。ロンドンのホクストンにダルストン、ショウディッチとヒケをとらない。落ちぶれていた街が復活してクリェイティヴな才能が根付く場になった。それからセルフォード・キゥイズ。昔は波止場だった。リバプールのアルバート・ドックやカナリー・ワーフのようなね。みちがえるようになったもんだよね。マンチェスター中のカフェや公会堂。どれも洗練された場所になった。ディーンズゲイトの運河が流れている辺りにはハシエンダthe Haciendaがあった。ホントいかがわしい所だったけどね。あそこも今はまともになった。

 Northern Powerhouse(訳注:北部こそが力の源)っていうのはトニー・ウィルソンの発想だった。―北西部が大英帝国の落ちこぼれだっていう評価を払拭させる、マンチェスターがその原動力になるんだという発想だった。[4]彼の夢はこの地域一帯が経済的にも政治的にも独立し、とりわけ豊かな文化が根付くことだった。それが全面的に実現できるとは思えないけど、トニーはずっと望んでいたんだよね。確かに一つの文化の中心地にはなった。ファクトリーという組織はトニーの名があったからこそ生まれたといえるんじゃないかな。文化という点でいったらトニーの夢はちゃんと実現したわけで、いわばその第一歩を踏み出したわけだね。

 マンチェスターはレコード店で評判をとった所だよ。ピカデリーは気軽に行ける店だった。バス停のそばにあったからね。次のバスを待ってる間にちょっと立ち寄れたし、たいていのモノは手に入った。よくあそこでCDを買ってた。1984年頃まだCDは世に出たばかりのツールで、さんざんノイズまみれのレコード盤で聴いてきたから、クリーンな音で聴きたくなってきてたんだ。ヴァージン・レコーズは・・・・ニュートン・ストリートにあったんだっけ?マーケット・ストリートのど真ん中に鎮座するメガストアになる前のことだけど。古くからの店は新しい店に比べて排他的だった。ハワード・デヴォートがマガジンのメンバー募集の広告を出したのは、たぶんヴァージンでだったと思う。マンチェスターには良い本屋もたくさんあった。―ピカデリーのすぐそばにあったグラス・ルーツのようなね。単にモノを売ればいいってもんじゃない(原著ではcathedrals of consumptionとなっている。これはジョージ・リッツアの造語。直訳すると「消費の大聖堂」。消費者を幻惑させる商業施設のたとえ。例えばショッピング・センター、カジノなど)、そこは出会いの場であり仲間と交流できる場であったわけだよ。

 

マンチェスターを離れたのはいつですか?その理由は?バズコックス・マーク1時代、離れたわけではないとお話になってましたけど。

 

単に1985年になって引っ越しただけだよ。『ヘヴン・アンド・ザ・シーTHE HEAVEN AND THE SEA』というソロ・アルバムの契約をして、その仕事でロンドンまで通うのが難しくなったんだ。それまで住んでた家の大家が亡くなってしまってね。引っ越しは一時的のつもりだったんだけど、19年も続いちゃったんだ!マンチェスターが嫌いになったわけじゃないんだ。逃げたんじゃない。新しいことをするいい機会だと思ったんだ。

 

マンチェスターが音楽をやるうえで特別な場所になったのはどうしてでしょう?

 

マンチェスターはコンパクトな街だからこそ、創作に向いてるんだ。街をひと回りするのに一時間とかからない。凝縮してるんだ。ロンドンみたいにあっちこっち入り乱れていない。七十年代にはマンチェスターの中心から徒歩30分以内に住む人口が900万人だったらしい。たぶん今はもっと増えてるだろう。観光や買い物できる場所がたくさんある。街に活気がある証拠だね。何かしようとするなら、皆マンチェスターを選ぶんじゃないかい?小さいエリアに人が固まっているから、同じ嗜好、同じ考えの人と出会う確率が他の都会よりはるかに高い。マンチェスター出身でなくてもここのパンク~ポスト・パンク・シーンでは何らかのメリットが得られる。例えば僕がそうだし、ハワード・デヴォート(リーズ出身)、イアン・カーティス(マクレスフィールド出身)もそうだしね。マンチェスターにいればいつでも出会いの場がある。ロンドンよりもね。

 

マンチェスターを音楽の街としている要素は何でしょう?

 

マンチェスターはロンドンと肩を並べる存在になってるけど、独特な風土があるね。マンチェスター人の気質っていうのか。ユーモアも解るし、それにストイシズムだし(訳注:ストイシズムstoicismには禁欲の他に平常心を持つという意味もある)。そう例えば、雨に降られてもとり乱さないようにするとかね。マンチェスター人はその時その時でベストを尽くすんだ。マンチェスター出身のバンドはその精神を受け継いでいる。その時ベストを尽くせばいい、ダメでもユーモアを忘れないっていうね。

 

音楽に親しむようになったきっかけというのは?

 

僕は1955年の生まれで、63年か64年にかけてはビートルズだったね。ビートルズが最初のポップ・グループだった。大体の人がそうじゃないのかい。メンバー全員がアニメみたいなキャラでさ。つまり一人一人が際立った個性を持ってたんだ。僕はポールが気に入ってたけど、解散する頃にはジョン派になってたね。

 叔母夫婦はスコットランドのローモンド湖近くにある社宅住まいだった。夏になると家族揃って遊びに行くわけ。リビングにはデカいラジオ付レコード・プレーヤーと78回転、それから普通のシングル盤が山ほどあった。パッツイ・クラインとかエルヴィスとか。もちろんビートルズもあった。僕はDJごっこをやったよ。田舎でやることなんてなかったし雨も多かったからヒマつぶしにやってたんだ。実家でもラジオは家族全員で聞いてたね。ラジオ1が登場するまではBBCのライト・プログラムが唯一ポピュラー音楽を聴ける手段だったんだ。[5]

 もう一人、母の姉にあたる叔母がいてオーストラリアに移住してたんだけど、そこの生活になじめなくて。で帰国するときに行きと同じ10ポンドの費用がかかったんだけど、捻出するのに三年位かかってしまってね!その帰りの途中に香港に立ち寄って僕と弟にトランジスタ・ラジオを買ってきてくれた。トランジスタは当時の一般的なラジオとか箪笥みたいにゴツイ、ラジオ付レコード・プレイヤーより進んだテクノロジー製品だった。といっても草創期のテクノロジー製品だったんだけど。1964年当時はこのトランジスタ・ラジオで海賊放送が聞けたんだ。ラジオ・ルクセンブルグ[6]とかラジオ・キャロライン[7]とかね。まだラジオ1が登場する前。あれは1967年だからね。もちろんテレビでは『レディ・ステディ・ゴー!Ready Steady Go!』とか『トップ・オブ・ザ・ポップス』を観ていた。

 

音楽方面のヒ―ローは誰でした?

 

ビートルズは外せないよ。1968年のクリスマス・プレゼントに弟と僕はレコード・プレイヤーを買ってもらった。スィッチでアームは動くけど、まあお粗末なものだったね。もうひとつ僕には『SGT PEPPER』がクリスマス・プレゼントだったんだけど、僕ら兄弟はしょっちゅうよその家で聴いてたんだよね。その家の人がパーティとかで留守になるのを見計らってさ。弟のほうはボンゾ・ドッグ・ドゥーダ・バンドの「Urban Spaceman」だった。クリスマスにプレイヤーを手に入れる前、その年の9月か10月に「Hey Jude」を買ったんだよ確か。ステレオを手に入れた頃にビートルズは解散しちゃったんだ。

 1969年頃になると音楽関係の雑誌や新聞を買い込んでは記事にインタヴューを切り取ってバインダーに綴じ込んでいたね。ギターを手に入れたのは1970年頃。教則本でビートルズ・ナンバーを練習するようになった。ビートルズが全てのきっかけだった。アイコンだったんだ。いろんなことに目を開かせてくれたのがビートルズだった。メディテーションとか。もちろんあの頃はそこまでには到らなかった。音楽のことばっかりだったけど。でもビートルズが新しい思想なり体験なりの源泉だったんだ。

 ヨーコ・オノも大好きで、よくレコードに合わせて歌ったりしたな。床屋代に一ポンドもらったんだけど、ジョン&ヨーコのポスターを買うのに使っちゃって、ポスターはベッド脇の壁に貼り付けた。両親は揃って僕の頭がオカシクなったと思ってたみたいだね。ヨーコのことをまるっきり理解できなかったんだ!山のようにポスターやら雑誌の切り抜きやらを集めて床下一センチには収まりきらないくらいの分量になったね。レーには教区教会近くのチャーチ・ストリートに一軒中古のレコード店があって、そこでは10ペンスとか15ペンスとかでレコードを売っていた(もちろん当時は十進法が導入される前さ[8])。毎週その店にたむろしていたけど、14歳とか15歳でアルバムなんて買えやしない、けどただ眺めてるだけなんてっていうのはね。ってことで、ビートルズのシングルを全曲集めることにした。まずは有り金はたいて「Penny Lane」、次に一枚また一枚という具合にね。全部集められたかは憶えてないけど。

 

最初に行ったライヴは?

 

1971年、ツアー中のT・レックス。「Hot Love」がリリースされた頃だった。出たばかりのシングルを買ってからコンサートに行った。5月16日。マンチェスターのフリー・トレード・ホール。僕の最初のライヴ体験。正面向って右の席だった。正真正銘のT・レックスさ。ビートルズはもう解散していたけど、T・レックスは生で体験できたんだ。ビートルズの全シングルをフランク・ザッパの『WEASELS RIPPED MY FLESH』と交換したんだけど、妙なジャズ・ロックって感じで気に入らなかった。T・レックスは『ELECTRIC WARRIOR』が出たときにすぐ買って、コンサートのチケットも買って再び観に行ってといった具合で、もう段ちがいにこっちさ。十代の女の子たちが金切り声を上げていて、僕は最前列にはいられなかったよ。ガールフレンドも連れて行ってね。彼女もファンになっちゃった。1972年はボランにドップリさ。(訳注:後の発言で、ピートは初めて行ったT・レックスのコンサートは1973年と言っている部分も含めて、彼の記憶には間違いが散見される。1972年5月16日に、確かにピートはフリー・トレード・ホールのT・レックスのコンサートに出かけていて、これがピートのロック・コンサート初体験であることは、先行研究で明らかになっている。ピートが「1971年/『Hot Love』」と語っている部分とは明らかに整合性に欠ける。ちなみに「Hot Love」のリリースは1971年3月、『ELECTRIC WARRIOR』のそれは同年9月)1973年にはティラノサウルス・レックス名義の四枚のアルバムは全部手に入れていたね。エレクトリック・ギターとアンプも買って、僕のリズム・ギターはマークボランからの影響大だよ。

 1972年にはビッカーズショウ・フェスティバルにも行った。ビッカーズはレーとウィガンの狭間にある小さい炭鉱街だよ。発起人の一人は(のちのテレビ司会者の)ジェレミー・ビードルじゃなかったかな。キンクスが出て、ホークウィンドにグレイトフル・デッド、ドノヴァンにキャプテン・ビーフハート・・・・。本物の音楽フェスティバルさ。ウィガン版ウッドストックだ!歴史に残る祭典だね。1972年5月5日~7日:泥と雨と音楽の三日間さ。最初の夜は友達と二人してフェンスの周りを歩き回った。入場料が払えなかったからさ。フェンスの向こうじゃフェスティバル。セキュリティっていうのはいまいましいもんだね。大勢の奴らがフェンスをこじ開けて中に入ろうとしてたけど、こっちはそんな度胸なんてなかった。次の日は土曜日だった。フェンスに隙間ができてて、僕らはまんまと中に入れたよ!ヒッピーのナリはしてなかったけどね。ダッフル・コート(訳注:フード付の厚いコート)を着ていた。色は当然紺色さ。そういう色しかなかった。

 その日家を出る前にラジオでデヴィッド・ボウイの「Star Man」がかかってた。フェスティバルでも流れてた。ボウイのことは1969年に『トゥナイト』っていう番組に出てるのを見ていて、それで「Space Oddity」は買って聴いてたけどね。学校の友達で『ZIGGY STARDUST』を持ってた奴がいて、僕はそいつからアルバムを借りてテープ・ダビングして、リビングの丸椅子に座って聴きながら歌詞を模造紙(訳注:34✕43cmの紙)に書きとった。一計を思いついてね。土曜日の朝にレコードを一度買うんだ。それをダビングして午後に店に返品すれば50ペンスで済むんだ。もちろんレコードはシュリンク包装をはがされている中古品だけど。

 1972年にボウイとミック・ロンソンは頻繁に音楽誌に登場していた。僕はММ誌の表紙を切り取ってベッドルームの壁に貼り付けた。そこにはボウイの言葉で、自分はバイセクシュアルであることを公言したと書かれていた。父からはこっぴどく叱られたっけ。文句なしの、完璧なまでの反逆行為だよ!「John,I’m Only Dancing」が出たその週に、ボウイはマンチェスターのストーングラウンドに出演した。ストレトフォードにあったと思うんだけど。開演前にはベートーヴェンの第九がかかってた。『時計じかけのオレンジ』でも使われてたよね。あの映画も物議をかもしたっけ。ボウイは『ZIGGY STARDUST』』からも『THE MAN WHO SOLD THE WORLD 』からも演奏したよ。虜になったね。ボランに対しては、ずいぶん熱が冷めてしまった。ボランの曲はすごくシンプルだったし。ボウイの方がソングライターとしてははるかに上を行ってた。

 ボウイが次にストレトフォードでライヴをした会場はグレイストーン・ロードにあるハードロックHardrockっていう、マンチェスターでも一番放ったらかしにされてた所の一つだった。そんなに古くはない建物だと思っていたけどね。これも1973年の話さ。セント・アンズ・スクエアにあるペーパー・チェスっていう名前の店でチケットを買った。海賊盤がたくさん置いてあったから入り浸ってた店だったね。僕のチケットは番号が1番と2番。特等席さ!

 1972年、ガールフレンドがワーセスターシェアにあるメルヴァ―ンからアザートンに引っ越していった。そこでちょっとモリッシーに似た男と知り合った。そいつは変人だった。ボウイはインタヴューでヴェルヴェット・アンダーグラウンドみたいな陽の当たらないバンドを評価されるようにしたいって語っていたけど、その男はヴェルヴェットのアルバムを二枚も持ってたんだから!僕の方はマンチェスターにあるパレス・シアターでのルー・リードのライヴを観に行ったけど、レーで育ったティーンエイジャーにはホント異様な体験だったね。僕はいつも人が好まないモノに興味を持ってきたんだ。スパークスもそうだった。彼らを最初に見たのは71年か72年。『オールド・グレイ・ホィッスル・テスト』でだった。同じ頃に、同じ番組でアリス・クーパーも見た。クーパーもホント・・・・まず普段はお目にかかれない、キテレツな奴だったよ。

 

ファンになるってことは、恋愛のようなものだと言う人もいます。あるいは宗教にたとえる人もいます。どう思います?

 

ファンになるのと宗教や恋愛とでは全くちがうと思うな。僕の親なら,ウチの息子がヤバイことになってるんですって言ったろうけど。だけど僕にとって音楽とはいい曲を書き上手く演奏する、それだけさ。ビートルズのことは高く評価しているし、大ファンだけど、あくまで音楽だけの話だよ。僕はその音楽とバンドそのものが好きなんだ。ベートーヴェンもワーグナーも、マーラーだって好きなのさ!

 

私がファンにつきまとわれたら戸惑ってしまうでしょうけど、あなたなら、上手くあしらうでしょうね。

 

ファンは好きだよ。大切な存在だし、皆が満足するならこっちもうれしいし、ファンとの交流は楽しい。その人となりを知るのも楽しいしね。ステージに立ったら聴衆全体を見ないで特定の人に目をつけて、その人に歌いかけるようにしてるんだ〔こびへつらってくる、そんな〕ファンの一団に出くわすこともないよ。大体自分たちが有名人で、それで問題になるなんて思ってもいないさ。街を歩いていたら挨拶はされるけど、それだけだしね。ストーカー行為もされないし、でも人って、普通気に入られたいと思うもんじゃないのかい?



[1] 同性愛権利活動家のアラン・ホースフォールの存在は、北部人とイギリス石炭庁職員たちが誉れとするところであった(彼が暮らしたアザートンは、ピートの故郷レーのすぐそばにあった)。ホースフォールは同性愛を合法化するため、同性愛法改革協会the Homosexual Law Reform Societyに加入し、関係者とのの連絡を密にするため自宅の住所電話番号を公表した。それは当時にあっておそろしく危険な行為であったが、彼の行動は1967年性犯罪法における同性愛合法化へとつながっていった。

[2] マンチェスターは1850年の公立図書館法the Public Libraries Act制定後、地方で最初の公立図書館が建てられた場所であり、市民の教育と啓蒙には常に革新的かつ積極的であった。ピートもその恩恵を受けた一人として自己啓発に努めたのであった。

[3] 厳密には「トップ・オブ・ザ・ポップス」は南マンチェスターの別の場所であるラスホルムで収録された。会場はマンクニアン・フィルムズMancunian Films用のスタジオで元々はメソジスト教会であった。マンクニアン・フィルムズは北部人向けの娯楽作品を制作する会社で1934年には若き日のジョージ・フォームビィの主演映画『Boots! Boots!Boots!』を制作している。

[4] マンチェスター発展の構想は部分的にではあるが、アンディ・バーンハムがグレーター・マンチェスター市長に任命されたことで実現されつつある(バーンハムは元レーの下院議員でもあった)。彼の議長としての権限はこれまでの市長と比べてはるかに強いといえよう。

[5] BBCのライト・プログラムBBC’s Light Programme 1945年~1967年まで「一般大衆向けの娯楽」や音楽を放送したラジオ局。その後はラジオ1Radio1(青少年向けの音楽)とラジオ2Radio2(中高年向けの音楽)に引き継がれた。ライト・プログラムになって最初に放送されたイギリスの「成績表(チャート)」番組が『トップ・オブ・ザ・ポップス』であった。

[6] ラジオ・ルクセンブルグRadio Luxembourgがヨーロッパの局限された地域でのみ放送されていたのは、商業放送権がBBCに独占され正式に認可が下りなかったためである。ルクセンブルグは二十年代から六十年代にかけて(BBCが軽視してきた)ポップ・ミュージックと十代の若者をとり込んだ内容で人気を博した。

[7] ラジオ・キャロラインRadio Caroline 1964年にスタートした海賊ラジオ局。イギリス領海の外にいる複数の船団が電波をコントロールし、商業放送規定の網の目をかいくぐった。六十年代のポップス愛好家御用達の選挙区に特化した内容であった。


[8] 1971年2月15日付イギリスにて合法化。