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ドゥ・イット・マイセルフ・イン・バナーラス

   すったもんだしながらも、どうにかこうにかアシムル先生の邸宅にたどり着き、ミッションその1完了と相成った。さて次は、我が下宿先を探さないといけない。なにせこの旅の端緒を作ったSは殆んど何もしてくれなかったからである。Sに言わせれば、「アシムルさんに連絡してやったんだから、それで十分だろ?」となるのだが、一歩間違えれば私は見知らぬインドで迷子になって野垂れ死にする可能性があったのだ。こうして書き記しながら、アシムル先生の家にたどり着けたことは僥倖だったと、冗談でなく思う。
 アシムル先生の邸宅を記録した写真はほとんど残っていない。写真は研修に行った証拠として大学への提出用に使い捨てのカメラで行なわれたもので、自分の記念用という意識はほとんどなかった。帰国後、提出用に、よりましだと思われる写真を大学に数十枚提出して、残りはろくに整理もせずにネガともども35年間省みることがないまま、ネガのすべてと大半の写真は処分されてしまったのである。そればかりではない。旅の間に取ったメモ、ノートの類も、そのほとんどがもう、この世にはない。人生、悔いの残ることの堆積というけれど、インドでの旅の記録を何故、もっと真剣に行い、かつ保存しておかなかったのかと慚愧の至りである。繰り返しになってしまうが、私はモノをとっておく行為がまるでダメである。モノを大事に扱うことも、まるでダメである。たくさんの大切なものを散逸させ続け、それを深刻に考えてこなかった。歴史の重要性を意識していながら、こと自らの歴史に関してはまるで無頓着であったのだから、矛盾というしかない。さて、上に掲げた写真は、その残った数少ない私がインドにいた証拠のひとつとなるもので、アシムル邸の中庭で洗濯をしているところをこっそりパチリとやられたものである。この写真を35年ぶりに見た時、私の脳裏に浮かんだのが、前回記したアシムル先生のお宅に初めてお邪魔した時のことである。洗濯。日本では洗濯機に乱暴に放り込んですましこんでいただけであったが、本来は甚だ煩雑な行為。インドでの洗濯事始めもまた前回の、あの場面から始まる。
「さて、まだ家族は全員揃っていないが、まずはその身なり、きれいにしたまえ」
 私は、てっきりシャワーを浴びてこいと先生が宣っているのではと思って、戸惑った。シャワーとは換言すれば風呂である。戦国時代の日本では、風呂の入るのは最高の贅沢とされた。初めて訪問したばかりでいきなりシャワー室とは、さすがの能天気な私も戸惑った。逡巡していると、先生はこう宣った。
「ノー・プロブレム。これから3週間、君はここに住まうのだからね」
「へ!」私は仰天した。まさか教師の家に厄介になるとは夢にも思わなかったのだ。
「昔は、下宿はいくつかあるにはあったんだがね。今はもう、そんな家はなくなってしまった。私のこの家も、留学生を何人か泊めたものだよ。これも、もう何年になるかな」
「私は、殆んど記憶にないですわ」これは奥さんの発言である。
「そうだろうな。おまえがここに嫁いだくらいが、最後だろう」私は、もしやSもここに厄介になったのかと思い、恐る恐る聞いてみた。
「いや。彼はここには住まなかった」きっぱりした口調で先生は返答された。
「S・・・・。存じませんわ」奥さんも素っ気ない。どうやらSは本当に、先生の家には泊まったことがないらしい。
「さあ、もう部屋は用意しているから、荷物を置いて、着替えたまえよ」
 ここまで言われては、拒否するわけにもいくまい。ありがたくここにいさせていただくことにした。
「オット、いかん。土産を忘れていた」東京で買った、「小ざさ」の最中を取り出す。
「これはこれは。中に何が入っている?」さて、あんこはどう説明すべきであろうか。
「アンコ・・・・大豆に砂糖を加えて煮て・・・・」果たして通じたのであろうか。ともかくも受け取ってくれた。
 アシムル家は五人家族であるとSから聞かされていた。先生の奥さんと長男夫婦に一人息子ということであったけれど、何年か前に先生の奥さんは亡くなられたらしい。先生も、もう大学を引退されて久しい。
(なんだよ。五人家族じゃねえじゃんか。Sもいい加減なもんだよ)相変わらずここでもSのずさんさが発揮されたわけだが、そうかなるほど、アシムル先生がさっききっぱりと、この家にはSを泊めていないと断言されたわけが判った気がした。しかしでは、何故私を受け入れる気になったのだろう。そう思っていると、奥さんが
「行水、しておいでなさい」と言う
「へ?行水?」
 実は、アシムル家にはシャワーも風呂もない。つまり、体を洗うときは、行水するのである。大体、水道が通っていなかったのであって、シャワーがないのも当然と言えば当然である。水は敷地内にある井戸水を汲んでいるのである。毎日酷暑であるから、水を浴びても文字通り、ノー・プロブレムというわけだ。行水は、その井戸のある所でするのである。
「ああ。なるほどですね」郷に入っては郷に・・・・はここでもである。
「洗濯物は、毎朝ドービーが来るから、出しておいて」と奥さんは言う。
 ドービーとは、洗濯屋である。穢れたものを扱う職業とされ、とりわけ低いカーストがいやがうえでも就くことが宿命づけられていると本には書いてあったが、私の中では大都市の、たとえばホテル業界だけが利用しているのだろうと勝手に想像していたから驚いた。
「毎日来るんですか」
「そうね。毎朝。夕方には綺麗になって、戻ってくるわ」料金はモノによるとか。
「でも、私のサリーは出さない」
「・・・・?」
 奥さんは、自分の服だけは出さないと言う。最初はその理由が判らなかったが、やがて、ドービーに就くカーストと、奥さんのカーストとの関係性にあることを知った。このカーストに関しては、今でも納得できない部分、把握できない部分が多々ある。何故、家族の服は良くて、自分の服だけは不可なのか。私は問うてみたかったが、語彙力の貧しさとヘタレゆえ、そのままになってしまった。ただ、奥さんやアシムル家全員が相当高いカーストの生まれであることを、だんだんと知るようにはなった。さて、私は自分の服を他人に洗わせるのはさすがに甘えだと思った。インドでの生活はできるだけ自分の事は自分でやりたいと思っていた。それがとりもなおさずへテレな自分とおさらばできることにつながると。インドでは洗濯機なるものは普及していない。ビンボーな旅人はすべからく自分の服は自分で洗濯すべきだと聞いていたから・・・・と言えば聞こえはいいが、一番の理由はたかだか洗濯のためにカネを使いたくなかったからなのであった、生来のどケチ根性はインドのカースト同様に強固であったのだ。
「いや、自分の服は」と丁重にお断りした。奥さんは「へえ」と、感心した態度を取った。それがどうにも私には不思議だった。甘えない態度に感心した、というのとはちょっと違う風に察せられたからである。このときは自覚していなかったのは迂闊であったのだけれど。
「それでは、行水で使っているこの場所を使え」と案内されたのが、上に掲げた写真に写された場所であった。井戸から水を汲み上げて、洗濯や行水、そしてもちろん料理にも使うのである。
 部屋にも案内された。畳にしたら6畳、いや8畳だろうか。部屋の奥に折り畳み式の、年季の入ったベッド。真ん中には正方形の、タテヨコ50cmほどの木のテーブル。タンスはないが、大胆にも壁の一部をくりぬいて、そこにモノが置けるようになっている。「なるほど、タンスを置くスペースが省けるってわけか」と感心しつつ、さっそく行水、ついでに洗濯としゃれこんだ。石鹸と洗剤は日本から持ってきたから問題はない。暑さにうだった肌に、冷たい水が心地よい。たた洗濯は初めての経験で、なかなかな重労働に感じた。貯めたら余計にしんどい。日課にせざるを得ない。さっきのドービーの件、ちょっともったいないとも思ったが、一度自分でやると言った手前、引っ込めるわけにはいかない。ようやっと済ませ、そばに張ってあるロープに干したとき、「ヘイ」と呼ぶ声がする。振り返ると男の子、と言うべきか、まあ私より年下の男なのだろう、が立っていた。
「やあ、日本からの?」と彼は聞く。そうだと答えると、
「僕は、ダーニ」と言う。彼はアシムル先生の孫である。
「そう、さっき着いたのかい。へえへえ」彼は快活な少年だ。年は16歳で、地元の学校に通っているという。
「ユー、大学生?20歳?へえ」ダーニ君は目をくりくりさせている。へえという言葉に、どんな意味があったのだろうか。その目は大きく、何だかビロードのようである。背はたぶん私と同じくらいだろうが、ずいぶんと痩せている。とはいえ、栄養失調という感じでもない。
「ああ、さっき、お菓子もらったよ、ありがとう」私が持参した最中の事である。
「あれ、インド人は食えるのかい?」アンコは宗教上食えないのではないか心配になってきた。
「大丈夫さ。僕はノンべジだしね」私は安心したが、
「母さんは、どうなんだろうねえ」とも言う。気に入らなかったのだろうか。だとしても、いまさらどうしようもない。アンタッチャブルな食い物ととられなければよいだけだ。
 そこへ、ダーニと向こうから呼ぶ声がする。
「マンマーだよ」そう言うと、ダーニ君は声のする方へ姿を消した。日差しは容赦なく背中を射抜く。
「・・・・やっぱ、あちいよなあ・・・・」部屋に戻ろうとして少々ボーっとなる。クソだ。まだ2日目でこれかよ。先が思いやられる。空を見やると、太陽がこちらの思惑に関係なく、ぎらぎらと光を放射する。日本でもインドでも、変わらず太陽は輝いて、その下を人間はあくせく動く。日本を脱出してきたと言っても、たかだか地球の中の事である。太陽からしたらカスのような距離である。その、カスのような距離を移動しただけでへたばり切る。人間たるや弱っちい動物だと思う。
 夕方になって、ダーニ君の父上も帰って来て紹介された。バナーラスの病院に週に2~3回勤務し、外には週に1~2日、バナーラス・ヒンドゥー大学の医学部にいるらしい。専門は小児科と話していた。父のアシムル先生より小柄な印象だ。
(小児科か・・・・)私はだしぬけに、自分の幼き日を思い出す。生まれた時から医者には掛かりっぱなしであったこと、1歳になった夏には脱腸で入院したのだが、病院では冷房がまるで効いていなくて、私はその直後から喘息に見舞われ出した、私の喘息は、あの時の病院があんまりにも暑かったからだと、母が話していたこと、喘息以外にもトビヒに結膜炎、中耳炎に扁桃腺・・・・中学に上がる頃までほぼ毎週、病院に通っていたこと、私の喘息は一時、難病扱いになったおかげで、医療費がほぼ全額タダになっていた、だからなのか、私がちょっと具合の悪い様子を見せると、「ほれ、○○さん」と当時かかりつけであった医者に行けと母から命じられたこと、中学に上がって、難病指定が取り消されたとき、「もうタダってわけにはいかないのねえ」とため息をついていた母。我が大学のトイレにいつも漂っている消毒液のキツイ匂いが、あのかかりつけの診療所のそれによく似ていて、大学に通うたびに、幼い病んでいた自分に逆戻りをした気分に陥ることがしょっちゅうであること・・・・。
「あら。あなた、ヒゲを落としたら、男前になったわ」奥さんからいきなり言われて、私はバナーラスに引き戻された。
「そうですか?」ちょっと恥ずかしくなって答えると、先生は、明日から早速ヒンディー語の講義をここでしようと言う。異論は当然ない、はずであった。
しかし日本でのしくじり野郎は、バナーラスへ来ても変わることはなかったらしい。アシムル家到着早々、高熱と下痢でぶっ倒れてしまったのだから。