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食えないガキ、ではない―イーター

   ネットで検索すると、同じEaterでも複数のバンドがヒットするが、今回のイーターは前後に何の単語もつかない、ただのイーター、である。いや固有名詞を知らせるTheもつかない。あえてつけなかったのであろうか。つまらぬことを気にしてしまったが、時にTheをつけないバンド名に出くわすことがある。自分たちは特別な人間ではないからという理由でつけないこともあるのであろう。あるいは「俺たち大売り出しするから限定というニュアンスのあるtheは使わないのだ」と、宣う輩もいそうだ。イーターの場合はどうなのであろうか。
 イーター・・・・。その名を知ったのは、『ミュージック・マガジン』86年6月号のパンク10周年記念特集においてであった。86年!10周年!今やパンクが登場して40周年をはるかに過ぎ、当時のパンク・ロッカーたちが押しなべて60歳を超えてしまっている現代からしたら、これまたえらい昔のことに属する。それが私にとって最も古いイーターにまつわる記憶である。確実な情報ではない。あくまでも私の記憶の中の話である。
 『ミュージック・マガジン』は、今は亡き東京三鷹駅南口駅前の、東西書房で買った。今、そこはパチンコ屋になっている。大学時代、私はよく大学の行帰りに立ち読みをした。めったにそこで本は買わなかった。嫌な客であったであろう。しかも、『ミュージック・マガジン』そのものも発売されてすぐに買わなかった。4か月くらいずっと店に置いてあって、たまたまサイフに硬貨が余っていたからこれも何かの縁だと思って買ったのである。いつもなら飯代か神保町に行った時の古本屋代の足しにするところであったが、気まぐれを起こしたのである、何故、かくも長い間店にあったのであろうか。需要があったからなのか。結果として買って正解であったと思う。この本で私はまるで知らなかったパンク~ニュー・ウェーヴのバンドの名をたくさん知ったわけだから。イーターもそのうちの1つであった。


表紙がジョー・ストラマーとジョン・ライドンのイラスト。他にニコとダムド(当時、共に来日していた)のインタヴューもある。定価400円。もちろん当時消費税はなかった


裏表紙がビートルズ来日20周年記念(!)のモノラル盤の広告である。ちなみに私は買わなかった。もう全曲持っているから、いいよな、と


 『ミュージック・マガジン』に載ったイーターは、「パンク・アルバム100選」というページの中で、『ジ・アルバム』をつくったバンドとして紹介されていた。筆者は森脇美貴男氏であった。「ミドルティーンの初期パンク・バンドで、早々とシーンから消えた」ミドルティーン。パンクは若者がやる音楽というのは、18歳当時の私でもすでに認識していたわけだが、それでも10代半ばは若いよなあ、とぼんやり思ったものである。メンバーの出自とか、70年代当時のパンク・シーンでどういう評価をされていたかとか、はたまた86年の時点でどんな扱いをされていたかなど、全然わからなかった。ただ、『ジ・アルバム』のタイトルの余りのストレートさに、まどろっこしさ無しの潔さを感じたし、そのデザインの、小さく印刷された写真に映ったアリと思しきものに、何故アリなんだと強い印象を受けたのだった(今でもわからぬ)。しかし肝心の音に接したのはずいぶんと経ってからであった。繰り返しになるけれど、当時の私は慢性的金欠で、それでいて欲しいレコードは山のようにあったから、イーターのようなどマイナー(!)なバンドはついつい後回しにしてしまった。


「パンク・アルバム100」他にはピストルズにクラッシュといった定番はもちろん、エコバニにマガジン、スミスも載っている

 厳密にいうなら、イーターは2曲だけなら86年中には聴いていた。その年の暮れ、池袋の輸入盤店で『ザ・ロキシー・ロンドンW.Ⅽ.2』という名のオムニバス・ライヴ盤を買っていたからである。パンクのマニアにはたぶん有名な1枚であろう。77年1月から4月の間にのみ営業していた(らしい)ロキシーというパンク専門のライヴ・ヴェニューで収録されたアルバムで、ここにイーターの演奏が2曲入っていたのである。1曲は「アイ・ドント・ニード・イット」、もう1曲はアリス・クーパーの「18」を改作した「15」である。どちらも短く、ぶっきらぼうな演奏に歌。世間一般の基準(?)に徴すれば下手糞で済まされる内容なこの2曲が、やけにかっこよく聴こえた。歌詞カードなんてないから歌の内容もてんでわからないが、それでもピストルズやザ・スターリン、クラッシュとは違う心地よいスピード感を感じた。アルバムの裏スリーヴに小さく不鮮明な画像の、イーターのモノクロ写真が載っている。この、たった1枚の写真。後ろにはドラマーがいるはずだが全く見えない。映っているのはヴォーカルの奴とギターを弾いている奴、あとはベースを弾いている奴だけだが、ベースの奴はよく見えない。ヴォーカルの奴はマイクを掴み前かがみになってこちらを睨んで歌っている。その腰のかがめ方はジョン・ライドンからの影響かと思ったりもする。写真からはそれしかわからない。その分こちらはイマジネーションを豊かにせざるを得ないわけである。当日のライヴの空気感はどんなものであったろう。暑苦しかったろうな、とか・・・・。レコードを何度も聴きつつ、写真も何度も見かえした。ネットなんぞなかった時代。70年代パンクのレコードもバンドの情報も満足に得られやしなかった時代。それだけに1つ1つの音、1枚の写真が貴重なものなのであった。これで早いうちにイーターのレコードを、と動こうとしなかったのだから、私もセンスがなかったというべきか。今にしてみれば他のレコードは後回しにしても何故手に入れなかったのか、と我がことながら呆れてしまう。

この赤っぽい色味。フランク・ザッパの『ホット・ラッツ』を連想してしまう
スローター&ザ・ドッグス、Xレイ・スペックス、バズコックス・・・・。21世紀に入ってそれらの単独作品が楽に手に入るようになった。時代は変わった(と、遠くに目をやる私であった)。おっと、バズコックスはすでに90年代に楽に手に入っていたな


当日のライヴ全曲分の録音は、残っているなら聴いてみたい

 
イーターの単独作品を何年も手に入れることをしなかったのは、85年か86年に出たベスト盤に抵抗感を持ったということもある。『ザ・ヒストリー・オブ・イーター・VOL.1』と題された、赤地にモノクロのライヴ写真が1枚掲載されていて、裏面には曲目と、隅の方に「ほどなく第2集とライヴも出る」と(当然英語で)書かれたアルバムである。いかにも安直な作りのそのレコード(そう、CDではない)、曲も12曲しか入っていなくて、
「どうせならコンプリート・レコーディングスにしろよ」と思って手を出さなかったのである。せこい話だが、そのくせ同じ時期にシャム69の、やはり安直な作りの12曲入りのベストは買っていたのだから、やはり私にセンスがなかったのであろう(シャム69を貶しているのではない)。ちなみに、『ヒストリー・オブ・イーター』の続編とライヴ編は出たのであろうか。全然見かけたことはない。おそらく出なかったのであろう。


小さい画面だが、たまたま見つけたので、貼り付けておく。写真はいい味をしているのだが。


 80年代中期から後半。私の周囲ではイーターなんて話題にもならなかった。いやイーターどころかダムドやバズコックスの名前すら知られていなかったし、パンクそのものが、まともに相手にされなかった。せいぜいピストルズとクラッシュが知られているくらいであった(クラッシュは「ロック・ザ・カスバ」や『コンバット・ロック』が売れたからであって、それ以前の作品を知っている奴はほぼいなかったと思う)。辛うじてジャムが、「ああ、ポール・ウェラー。スタカンの。あれが前にやってた」てなレベルで、これが学年で1つか2つ違えば状況はガラリと変わっていたかもしれないが[i]、私がパンクを聴きだした84年から86年頃、東京武蔵野に住む67年から68年に生まれた年代にとってのパンクとは、こんな扱いだったのである。
 音源の供給状況が一気に変わったのは80年代のどん詰まり、89年の夏である。突然2種類のイーターのCDが、それも日本で正規に発売されたのである。なぜ突然に発売となったのか全くわからないが、私は大喜びで2枚とも手に入れた。CDなりレコードを定価で買うことは当時めったになかった私が、CDを2枚もいっぺんに定価で買うのはある意味快挙であった(その代わり、あの時は本を買う予定もあって、大変ひもじい思いをしたのであるが。これについては別の機会で述べたからくりかえさない[ii])。バップから出たそのCDだが、それぞれ解説は森脇氏と小野島大氏が担当されていた。その2枚を、私は買ってから半年くらい、毎日のように聴いていた。それだけ気に入ってしまっていたのだが、驚くべきことに(驚きゃしないか)、いまだにちょくちょく聴いているのだ。一時はCDが店に入ると曲がだぶっても構わずに買ってしまったりしていたものである。だぶっても、と記したが、イーターなんて再結成後の音源を除けば、シングル4枚、EP1枚、アルバム1枚しか出していないのだ。ピストルズといい勝負である。大半の曲がだぶるのである。それでも買っていたのであるから、数寄者というしかない。ところが、今我が家にあるイーターのアルバムは2枚のみである。30数年の間に他のレコードやCDともども散逸してしまったのである(プレゼントしたものもあるが)。2枚もあれば十分だって?・・・・確かにな。

手元にある2枚のうちの1枚。やはりアリだよな、これ

 

Lock It Up

 

俺は何も持っちゃいないけどけっこうだね

お国はなにもしてくれねえ

クルマもなけりゃ、バイクもねえさ

けど、どうってこたあないさ

カネをたんまり持ってるあいつらは、

閉じこもって出てこねえ

どうせ稼ぎまくってるんだろう

 

カギをかけろよ、隠れてしまえよ

もめ事はたくさんだ

カギをかけろよ、隠れてしまえよ

俺らは、大丈夫さ

 

何だかんだで

仕事が終わりゃ、

オトモダチと、ビリヤードなんだろうよ

けどあいつら、楽しいのか?

ヒマが多くてかえってビビってんじゃねえのか

カギはちゃんとかけとけよな?

 

 昔、日本のスター・クラブもカバーしていた「ロック・イット・アップ」、イーターの代表曲扱いされているようである。本国では3枚目のシングルA面曲。日本でもシングルとして天下のポリドールから出ていたようだが、現物は見たことがない。この歌詞だが、いきがっているのだけれど、情けないのだ。俺はカネも何も持ってないけど大丈夫とか言って、妬みが透けて見えるのだ。同時に金持ちが抱えるやっかみとかそういったトラブルに見舞われるのも嫌だと言っている。身勝手なものだ。でもそこがいいのだ。人間なんて見栄っ張りの身勝手な生き物だ。それをあけすけに歌ってしまえる。自分の生活にあるむかついたことを、テライもなく恥部な部分も含めてぶちまけてみせる。高尚なメッセージを発するよりこれこそパンクだと私は思う。
 音の方も、歌詞に劣らず情けない。ペラペラ。でもこのペラペラがいいのだ(どこまでもえこひいき?そうさ。文句は言わさない)。面白いのが、ベースの音がやたら大きいことだ。プロデューサーはデイヴ・グッドマン。初期ピストルズのプロデューサーだった人である。ピストルズがメジャーのEMIと契約した時にプロデューサーの座をクリス・トーマスに奪われた格好になって、気分が悪かったのではなかろうか。トーマスはピストルズをプロデュースしたときやたらとギターを重ねて音を分厚くしたが、それを聴いてグッドマンはピストルズへの対抗心から全く違った音にしようと思った、ピストルズとは逆に、音を重ねず、しかしそれではインパクトがない、ならばと参考にしたのがある意味ピストルズ以上にレコードを売っていたストラングラーズであった、とは私の推測である。根拠はない。ただ、ストラングラーズの音はベースの音を極端に強調したことが、彼らが注目される1つの要因になったわけで、これを真似しようとしたくなるのも不思議ではない。しかし、イーターの場合はベースの音を強調しても、やはり全体の音はペラペラ。何度も言うが、そこがいいのだ。ピストルズのように分厚い音でなくてもパンクになる。他のパンク、ダムドとかバズコックスやザ・スターリンと同じ地平で私はイーターを語れるのである。
 情けない、ペラペラと言ったけれども、私は下手だと思ったことはない。いやむしろ、これだけ歌えてプレイできればたいしたものではないか。決して矛盾ではない。そしてほとんどの曲が2分前後。勿体ぶった展開もない。この潔さを私は30数年間(聴いていなかった時期もあるけれど)愛惜してきたのである。
 先ほど名前を挙げたダムドやバズコックスとも、イーターは親交があった。イーターのデヴュー・ライヴはバズコックスを前座に従え(!)、わざわざロンドンを離れマンチェスターで行なった(マンチェスターだったからこそ、バズコックスを前座に出来たとも言えるが、会場を25ポンドで自らレンタルしたという。費用はアンディ・ブレイドの父親が工面したらしい)。そのライヴでイーターにはブーイングの嵐。終演後にヴォーカルのアンディ・ブレイドがバズコックスのヴォーカルだったハワード・デヴォートに慰められたという哀れな話も伝わっている。イーターの初代ドラマーだったディー・ジェネレート(結成当時は14歳だったとか)のドラムの師匠はダムドのラット・スケイビーズだったとも。[iii]アンディ・ブレイドはイーター解散後、ダムドの初代ギタリストのブライアン・ジェイムスとレコーディングを・・・・。ダムド、バズコックスの人脈から眺めても、イーターは興味深いバンドなのである。そしてダムドやバズコックスが何故、イーターと交流をしたのか、彼らのパンク観(思想・信条と言い換えてもよかろう)に徴してみれば納得できる。栄森陽一氏がかつて述べておられたが、「クラッシュよりダムド」なのである。[iv][v]  
 とはいっても、イーターの全ての作品を好むわけではない。『ジ・アルバム』後、78年に発表した4曲入りのライヴEPでは、それまでのスピード感よりも、じっくり演奏し朗々と歌い上げるパターンが目立つ。演奏時間も3~4分前後とずいぶん長くなった。メロディ展開など聴かせどころはある。しかし突き抜けていくような痛快さは減退してしまっている。同じ年の暮れにはシングルを1枚出すが、ギタリストが変わったせいもあるのか、ちゃんとした(?)ギター・ソロが耳を捉える。良くも悪くも標準的なロックンロールバンドというところか。この時期の歌詞をチェックしたいのだが、歌詞カードがなく、私の悲しいヒアリング力ではお手上げなのだが、「ホワット・シー・ウォンツ・シー・ニーズ」は女に説教臭いことを言っているように聞こえる。となると、いよいよ・・・・となる。そこには77年の頃までの鮮度はない。結局、このシングルを発表してすぐに、バンドは解散したようである。
 かつてのパンク・ロッカーが押しなべて60歳を、と最初に記したが、アンディ・ブレイドは61年3月1日生まれだという。ということは現在62歳。イーター結成当時15歳で、ガキパンクと言われた彼も、すでに60代。時間は否応なく流れる。96年にパンク20周年を記念してのようだがイーターは再結成されて、公式にレコ―ディングもしている。近年も作品をYouTube上にアップしているけれども、そちらは聴きかえす気になれない。なんだか色気あり過ぎというべきか、こねくり回し過ぎというべきか、かつての、爆竹がバチバチしながら暴れまくっているような痛快さは幽玄なものとなってしまっていることを思い知る。キャリアを重ねることを否定するものではないけれども、鋭さ凛々しさを失った表現者の姿を見るのは辛くもある。
 そう、私にとってのイーターとは、あのアリのイラスト(?)が躍っている時代に限定されるのだ。リアルで体験することのなかったイーター。身勝手な啖呵をきっていたイーターなのだ。



[i] クラッシュの来日は82年の初頭。この時私は14歳になる直前である。もし私があと2年早く生まれていたら、ひょっとしたらリアルタイムでクラッシュにのめり込んでいたかもしれない、などと不毛な思考に誘われる。

[ii] 拙稿「一冊の本を巡って―スミス生誕300年に寄せて」、参照。

[iii] CD『ジ・アルバム』、日本流通版添付の、TAYLOW氏のライナー(2020年)から。

[iv] バズコックスは77年、クラッシュ主催の「ホワイト・ライオット」ツアーに参加していたが、このとき金銭的な援助をまるでしてもらえず、経費は全て自腹で、おかげでレコード制作用の貯金(あの『スパイラル・スクラッチ』に次ぐ作品を、自主制作で出す算段だったのだ)を使い果たしたと、ピート・シェリーはバイオ本『ever fallen in love』で語っている。

[v] ポイズン・アイデアのアルバム『ウォー・オール・ザ・タイム』94年日本盤CDのライナーより。