見出し画像

Love is lies

    アウランガーバードを発った時から調子の悪かった腹が、ジャイプルに到着したところでいよいよ下痢になった。インドに来て、これで3回目である。ジャイプルは街中ピンク色に染まっていることでその名を広く知られているが、私にとってジャイプルは最初ブラウン、やがてはチェリー・レッドな街・・・・という品のないイメージ―もちろんこれは私個人の中だけでのイメージである―に彩られた街となってしまった。当時のジャイプル滞在のメモを見ても、今朝何時にこの色の便が出た、ベッドの上で腹がしくしくしているという記述ばかりであり、どこそこに行ったとかいった記録は残っていない。いくら下痢でひーひー言っていたとしても、もうちょっと書いといても良かったんじゃないかい、と当時の私に難癖をつけてやりたくなる。これでよく我が大学へのレポートが提出できたものだと思う。レポート?どうだっていいわいインドに来ちまえば、と当時は単純に思っていたのだが、35年が経った今、大学当局には申し訳ないことをしたと反省しきりである。こんな学生にカネをやって海外に行かせるなんてもっての他だと、今はインドなどアジアへの留学斡旋は一切大学ではしていないのももっともであろう。もっとも、提携校の全くない国に学生を研修に行かせるというある意味無謀なことをし、しかも学生の身の安全には一切関知しない大学側の対応を振り返って見ると、斡旋はやめて正解なのかもしれない。
 さて、というわけで、ジャイプルでの思い出は全く記すことができない。メモを見るとどうやらジャイプル到着後3日かそこらで、私は下痢をおしてカジュラホに向かったことになっている。我ながら奇妙なことに、カジュラホではやはり下痢で多くの時間を宿のベッドにいたのに、そこでの記録はジャイプルよりもはるかにたくさん残しているのである。滞在期間もジャイプルより長い。カジュラホもまた、名だたる観光スポットであり、そこの寺院に残されたエロティックな彫刻は美術史上にも重要な作品であるのだが、この彫刻が目的で記録を残したわけではない。彫刻に関しては、実に素っ気なく書いてあるだけである。では一体どんなことを、35年前の私は記していたのだろう。
 カジュラホに着いて、私はまっすぐ宿泊する宿に向かったと書いてある。ところがその宿は満室であり、宿の主人から別の所を紹介してもらっている。観光名所だけあって、宿は密集していて、簡単に別の宿は確保できた。とはいえ、部屋が空いているだけあって、私が当初目指していたところより数ランク下の宿であったようである。シャワー室はなく、体を洗いたければ炊事場のようなところで行水となる。お湯は当然蛇口からは出ない。泊まった部屋はドミトリーではなく個室であったのは、下痢に苛まれている身としては幸いだったが、ところどころ壁ははげ落ちていて、天井には扇風機が付いていたが壊れて動かなかった。窓にはガラスがハマっておらず、つまりは穴なのであった。「扇風機はなくてもインドはガラム(暑い)だからノー・プロブレム。窓ガラスもなくてもノー・プロブレム」とにこやかに返された。
「でも、旦那。うちはベリー・チープよ。ユーが行こうとしてたとこよりずっとよ」と今度は自分の宿を盛んにアピールする。
「でもソーリーね。ドミトリーは埋まってるのよ。空いたらそっちに移る?」
 下痢でヘロヘロの私は、ここでいいと答えるのが精いっぱいであった。
「それより、ここに医者はいますかい?」宿の親父は「オー、ポアユー」とわざわざ自ら医者に連れて行ってくれた。
「アウランガーバードでも言われたんでしょう?旅の仕方、改善しておられないようですな?」カジュラホの医者からも説教を食らい、薬を処方され、とぼとぼ宿に帰ってひっくり返り、そのまま朝まで寝こけてしまった。
 翌日、目を覚ましたのは昼近く。インドのホテルは、たとえばアショーカ系のチェーンは別として、このての木賃宿はチェックイン~チェックアウトの時間に厳しくない所が多い。こんな時間にのうのうと起き出しても、宿の方では文句も言わないのがありがたかった。
「体調はどうだい?もう横にならない?」従業員がブロークンな英語で語りかけてきたから、ありがとう、もう起きるからと言うと、「じゃあ、そこのテラスにいればいい、シーツを代えるから」と言われた。なるほど、いたら邪魔だよな、気付かず失礼したと、部屋を出て突き当り奥のテラスに行ってみると、すでに先客がいて、椅子に座っている。後ろから見ると黒髪であったから日本人かと思ったが、相手が振り向いたその顔を見たら、どうやらそうではないらしい。
「やあ」それだけ言うと、相手はまた、前を向いた。そこにはどこまでも野っぱらが広がっている。
「ここはどうです。いいでしょう。どこまでも緑だ。都会の乾燥しきった空気とはまるで違う」男はこう言ってまたぼうっと前の野っぱらを眺めている。
「ここも太古はたくさん人がいたんだろう。遺跡が残されているってことはね。The rest is a historyさ」そう言うと、男はにやにやした。
「君。そこの椅子が空いてるよ」私が言われるままに腰を下ろすと、
「昨日着いたのかね。下痢でだいぶお疲れのようだ」と言ってくる。何故知ってるのかと驚いていると、
「昨日、ここの宿の主人が教えてくれたのさ。俺もインドに来た当初は手ひどい下痢にやられたよ。10日くらい、そこに足止めをくらった」とまた笑う。下痢をしたことを笑えるとは、ずいぶん腰のすわった御仁と見える。
「そうかい。バナーラスか。あそこもいいい所だろうねえ」どうやら、男はバナーラスに入ったことはないようである。
「今まで、どこにいらしてたんですか」ちょうど胃の中のものを全部出しきって、私のアタマは僅かなりとも動くようになったようである。今度は私の方から質問を出してみた。
「デリーで下痢して、はははは。それからボンベイ、マドラス、カルカッタ。大体2週間ずつだ。先週からここにいるよ。もう2ヶ月インドにいるね。あと1か月でビザは切れるけど、延長するかどうか、その時考えるよ」彼はイギリス人らしい。今回で2回目というので、私はまたも驚いた。
「前はネパールとかにも行ったんだ。都会にばっかり暮らしていると、気が滅入るよ。インドはリラックスできるからね」かならずしも、全ての人間がリラックス出来るわけではなかろうと、反対したくなったが、黙っておいた。
「昨日まではあと2人。イギリスの夫婦がいたよ。奥さん下痢が治らないからって、帰っちゃった」夫婦でインド旅行?パックではなくて単独で?これまた殊勝な心掛けだが、病気になってしまったのならどうしようもない。さて、目の前のこのブリティッシュ、今日はどうするのであろうか。
「今日?なんにもしないよ」これまた、あっけらかんとしている。
「有名な観光名所は、大体行きつくしたし。こうやって景色を眺めていればいいんだ。あくせくすることはない。君だって、そうだろう?」たしかに、ある意味では同じ目的でここにいるのだが。
「インドでも、嫌になるところはあるよ。いっぱいある。でもそれでも来たくなるんだな。理由?説明できないな。そうだなあ。自分であるために、かな」おそらく、私より10は年長であろうこの御仁はそう言うと立ち上がった。
「腹減った。君。下痢でもなんか食ったほうがいい。肉はやめて、ダールみたいなのならいいんじゃないか?」
「ああ、あと、ラッシーですか」
「オー、それいいね」
 この宿はあくまでも木賃宿であって、食事の世話はしない。宿泊客は自分で食い物を手に入れないといけない。しかし宿の近くには屋台があるものである。アシムル先生からは屋台の食い物はやめろと申し渡されているが、他に食う所がない以上はしかたがない。
 御仁と屋台でオーダーすると、他にも何人かの客がやって来て、めいめいにオーダーしている。そのうち、だれかれとなく会話をするようになった。皆、それぞれお国は違う。こういう時は英語が実に役に立つ。なるほど英語は世界の共通語だと実感させられた。ただし、この中でも私の英語が圧倒的にお粗末だったろうけれども。
 一人、インドネシアから美術研究の為とかで来ていた男がいた。カジュラホの遺跡にはもうかれこれ5回か6回通っているらしいという強者である。「来るたびに、印象が変わる。飽きない」と熱心に語る。
「あの遺跡は、裏切りませんからね。見に来る者たちを受け入れてくれる。こっちはただ、いだかれるだけ」と嬉しそうである。
「愛・・・ですか」私は何と言っていいかわからず、アタマに浮かんだ愛という言葉を簡単に、何も考えずに口にした。すると、そのインドネシア人はうーんとうなった。
「愛、ねえ。そう。あの遺跡をつくった人たちは、神への愛の為であったんだろう。けど」その後を、それは誰であったろう。イギリスの御仁だったのか、それとも別にその場にいた人であったろうか。
「嘘だね」
 私はぎょっとして、あたりを見渡した。このとき、屋台の周りにはイギリス人とインドネシア人、あと2人ほどいたと思う。このうちの誰が言った言葉なのか、メモには書かれていない。このときの彼らの表情の記録もない。ただ、「嘘だね」の言葉だけが、私の脳裏に刻まれた。
 愛。それは都合のいい言葉であろう。他者にやさしさを、温もりを感じた時、当事者はそれを愛だと感じるであろう。それは不思議でも何でもなかろう。だが、そのやさしさは、温もりは、最初予覚していたものとはまるで異なる像を表わすこともある。あのやさしさは、他者があとで美味しいモノをすするためのエサだった、温もりだと信じたのは、単なる錯覚だった、などなど。インドネシアの人が、何度となく見に訪れているという寺院の遺跡。そこに残された彫刻たちが表現していると一般には思われている神への愛。もしかすると、それは偽りの愛なのかもしれない。いや、そもそも神への愛なんかではないのではないか。そのとき彫刻を掘っていた古(いにしえ)の人は、神への愛なんて考えてもいなかったかもしれない。ただただ、この地の支配者に命令されて、いやいや仕事でやっていたかもしれない。彫刻を掘れと命じた、おそらくこの土地の支配者は神ではなくて、己が愛人の気をひこうとして掘らせたのかもしれない。そしてこの場合の愛は、愛でも何でもなく、女への支配欲だけだったのかもしれない。愛だとされていたもの、愛だと信じていたもの、それは愛ではなく、それぞれの人が勝手に拵(こしら)えた虚構・幻なのかもしれない。「嘘だね」この時聞いた言葉を、私はずっと反芻することになった。
 その翌日。下痢が小康状態になったので、私も遺跡を見ようと出かけていった。宿から歩いて10分とかからずに着いた。さすがに喧伝されているだけあって、見事に細密な、そしてエロティックな像の数々であった。だが、私の中では、あの「嘘だね」がこだまして、像そのものには心を動かされることがなかった。
 宿に帰ったとき、どっと疲れが出た。その晩、再び屋台で夕飯をとった後、再び下痢を起こした。
「愛は嘘・・・・それよりもこの刹那の生理的危機だよな」私は腹を抱えてため息を一反もつき、つくづく己の肉体の虚弱さを呪ったのであった。