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Summer’s almost gone.

    バナーラスのアシムル家に再び御厄介になったとき、ねぎらいと共に厳しい批判をされたのは、無理もないことではあったが、やはりこたえた。
「あれほど言ったじゃないか。無理な旅程は組むなって。それに食事。君は無頓着すぎる。これでは慢性的な自殺行為だ」
 こんなことを言われたと思う。
 バナーラスに着いて2~3日で、下痢は収まった。食も進むようになった。奥さんはしばらく私用の料理レシピを考えてくださっていたのにも恐縮しきりであった。
「さて、語学は常にやらないと、なまってしまう。体調も落ち着いたようだからね」なんとアシムル先生はヒンディー語の講義を私に課した。毎日朝の1時間強、みっちりやらされたのにはまいった。
 ダーニ君のご尊父からは、午後は勉強禁止、昼の2時間は昼寝を命じられた。
「炎天下の中、出かけるのはだめだ。また下痢になる」ということであった。
 ただし、夕方は外出することは許された。多少なりとも運動はした方がいいという配慮からである。このときにはたいがい、ダーニ君が同行した。彼が同行しない時には先生がその任にあたった。単独行動をとろうものなら、またムチャをしかねないからというのが理由であった。これでは軟禁状態同然であるが、アシムル一家が私に気を使って下さるのは痛いほど伝わってきたから、おとなしく従った。
「どうせなら、将来はインドに住むかい?」
 ある日、ダーニ君からこんなことを言われて、私は仰天した。
「考えたことがないよ。なんでそんなことを?」
「いやあ、ミスターが、面白いからさ。見てて笑えるから」ダーニ君はけらけら笑った。
「ここに住んだとして、職はどうすればいいんだい。俺にはなにも取り得がないよ。言葉だってまともには通じないし。それに、ご覧のように自重できない奴だし」
「ははは、ジョークだよ。ほんと、君は面白いな」やはりダーニ君は笑った。
 これらの、バナーラスでのアフターアワーズな日々は、インドでおそらく唯一の、のほほんとした時間を私に与えた。インドでの私は、日本での時と同じく、憑かれたような緊張状態に自らを追い込んでいた。この刹那を、無駄にしてはならないと無理やり自らのケツをひっぱたいていた。結局のところ、それは自己満足な空回りであった。そんなことをしたって何のトクにもならなかった。
 人生、無駄だって必要である。いや、無駄だと思えるものが、案外無駄ではないのである。
 インドに来て、それも終盤のこの時期に到って、私はこの思いを初めて、痛切に味わった。カジュラホで出会った、あの御仁の姿が思い起こされた。あの人も、私と同じキリキリする感情を、平素は自分の故国で味わってきて、そして擦り切れた心をデドックスするために、継続的にインドへ来ていた、ということか。
 日本に帰る日は、否応なく迫っていた。帰ればまた元の、心身を切り刻む、デクノボウになる毎日を送らねばならない。インドでの日々は、やはり私には期間限定の逃避。それは覆せないのであった。
「体調不良でない状態で帰れるのが、せめてもの救いか」私はこうつぶやきつつ、「いや、そればかりじゃない。それだけではない」と言い聞かせた。
 カメラには、まだ1,2枚空きがあった。最後にもう一度、ここでの景色を残しておこう。奥さんにひとりでの外出の許可を求めると、「最後だからよい」と言われた。
 バナーラスの市内をふらふら歩いているうちに、日差しが、空気が、心なしか穏やかになっているように感じられた。そうか、もう9月も半ばなのだ。灼熱と言われるインドでも、季節は巡る。夏は去りゆく。物事は同じなようで、常に変わっていくのだ。
 前から、3人の子供が固まって歩いてくるのが見えた。日本人はやはり珍しいのであろう。こちらを認めると、好奇心に満ち溢れた様子で見つめている。
「なあ。写真、撮っていいかい」
「はえ?」子供たちは恥ずかしそうにして立ち止まった。撮影OKのようだ。1人は緊張したのか、カメラを睨む表情になった。それもまあよし。
「どっから来たの?」
「日本だよ」
「日本のどこ」
「ええっと」私が口ごもると、子供たちはきゃっきゃっと笑った。こっちもつられて笑った。彼らも、やがては私のようなキリキリする日常を味わうことになるのだろう。しんどいよなあそうなってはと、でもせめて1日のうちの、ほんのひとときでも・・・・いや、やめよう。
 再びバナーラスを離れる日。今度はちゃんとデリーで1泊する旨を、アソーカ系のホテルにも泊まるよう、厳然と命じられ、私はアシムル家の人々に見送られて駅に向かった。
 列車は、今度はトラブルもなくデリーに着き、オートリキシャにホテルの行き先を告げるとすんなり着いた。行の時のゴタゴタとは正反対であった。ホテルの食事はバイキング形式で、たしかに清潔感があった。あったのだけれど、これでは日本のホテルと変わりはないわなあと味気なさも感じた。
 翌日。どんな行動をとったのだろう。メモなどの記録が全くない。夕方6時30分のフライトだから、丸1日あったわけで、フライトまで何らかの行動はしていたはずである。ところが我が事なのに、全く憶えていない。35年の年月は容赦なく記憶を削り取ってしまっている。おそらく、さしたる出来事はなかったのであろう。ただ、飛行機に搭乗して、離陸を待っているときのことは、フィルムのネガのように焼き付いている。
 サーリーを着た搭乗員が、機内を見回っている。ずいぶんと恰幅の良い、褐色の肌をしたマダムだ。この人はバラモンのだろうか。おそらくは高い位の人なんだろう。バナーラスやカジュラホで会ったドービーの階層ではないことは確かだろう。サーリーはきらきらしている。いかにもきれいだ。相当手の込んだ刺繍をしている。これの洗濯には、ドービーを雇うのだろうか。それともこの添乗員自らが洗うのだろうか。やれやれ。こんな有閑野郎の思考なんぞ、日本に着いた刹那、ふっとばさなければならない。またすったもんだの日常がやってくる。アシムル先生がせっかく指導してくださったヒンディー語だって、何の役にも立たない。そのうちヒンディー語そのものも忘れてしまうだろう。惰性と倦怠ばかりの大学の講義。Sとはあと半年いがみ合うことになる。バイトでは品性のない奴等の蔑みに苛まれる。漱石の『道草』のラストの科白そのものだ。
「世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない」
 搭乗員が機内食の案内を持ってきた。2つあるうちの1つを選べ、とあった。おしきせ料理なんてたいして食いたくもない。私はため息をついて、こう口の中で付け足した。
「それでも、片づけなければいけないんだろうな」