6/1からギャラリー、美術館が営業再開になり駆け込みで見に行った。

・Gallery αM 黒田菜月 写真がはじまる展

https://gallery-alpham.com/exhibition/project_2020-2021/vol3/

会場には2つ部屋があり、上映時間が設定された2つの映像を互い違いに見ることができる。

一つは作家が子供向けに行ったワークショップで、2班に別れ動物園で撮影班が自ら撮影した写真を言葉にし、推理班はその言葉をヒントに、それがどこで撮影されたのかを見つけ出し、自ら撮影するというものだった。もう一つは、介護者がかつて介護を行っていた人の部屋の写真について語る場面を撮影した映像で、いずれも写真を題材にしながらも、その写真について語る時間がこの展示の主となっている。

ギャラリーや美術館の写真展で壁にかけられている写真について、その画面内の美的要素や写真群が構成している意味について読み解くような見方ばかりしていると、ある面でそこに写っているものが何なのか考えないようにしてしまうところがある。

バルトのいうプンクトゥムのような、ある個人にとって特定の意味合いを持つ写真の細部について語ること、例えば、この展示でいえばベッドの周りに配置された物々のような、特定の人にとってしか価値の持ち得ない物や事柄についての語りに対して、極めて冷淡になってしまう所がある。

だがこの展示はその語りの側にフォーカスを集め、ある写真の細部について語る時間を映像にして展示している。むろん撮影者でもなく、撮影された対象についても知らない私達が、そこで語られていることについて真に理解することはできない。だが、「それ」について語る行為を鑑賞者が捨象して判断することがどれだけ傲慢なのか、改めて突きつけられた気がした。

展示美術という特殊な審判が行われる環境が、いかに写真についての価値判断を狭めているか。あるいはSNS上に流れる大量の写真について、我々がいかに語ること止め消費されるがままにしているか。その事を思い出させるとともに、写真のプンクトゥムについて語ることのリハビリテーションをするような時間だった。

・東京現代美術館 マーク・マンダース マーク・マンダースの不在展

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都現美のチケット予約システムがライゾマ展、マンダース展のみ、両方と別れていて、さらにクレカと現地払いがあり、さらにさらに招待券を持っている人も日時指定をしなければいけないなどわかりづらく。、公式HPにフローチャート図ができていた。

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マンダースはギャラリー小柳で作品を見ていたし、楽しみにしていた展示だった。

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写真からも分かる通り、彫像が破壊され打ち捨てられているようだったり、立体の中で強くテンションがかけられる部分に組み込まれていたり、破壊された(ような)彫像と抑圧的に傷つけられた人体イメージを重ね合わせる作風の作家だと思っていた。

だが、展示のドローイングや人体を扱った彫像以外の作品をみると、作家が持つイメージ群の中での戯れをセンスでまとめるような上手さが見え、人体を扱った作品も自分が考えていたような人間性を真正面から問題にしたものではないように思えた。実際、写真のテーブルとワイヤーの間でテンションをかけられた人体の中には鉄が入っていて構造上問題ないように作られているらしい。

自分がマンダースの作品に対して描いていたような、社会システムの中で抑圧され傷ついた人体、という筋書きはあまりにも単純すぎたのかもしれない。制作というのはもっと個人的で、多義的な意味を帯びているのだというのもわかる。

作品をめぐる作家と鑑賞者の間の適切な翻訳可能地帯を、展示を見たその場で見つけだすのは実は稀な事なのだと、常々思い返すようにしている。



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