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春のしらべをつかまえに |ムーミン谷の仲間たち

久しぶりの投稿になってしまいました。

四月から、息子が保育園に通いはじめ、こうしてポッカリと、午前中から贅沢にひとりの時間ができてしまって、

すこし困惑。

時間がとつぜん自分のところにもどってきて、どうしたらいいかわからない。もういちどなかよくなる必要がありそう。

そうしてわからないままパソコンをひらき、久しぶりにキーボードをたたいています。なにかつかまえられそうな気がして。

つかまえる、といえば、このごろちょうど読んでいた『ムーミン谷の仲間たち』。このはじめの章の「春のしらべ」では、「ぼうしの下で、もういく日も」歌のしらべをあたためてきたスナフキンが、その歌のとびだしてくるのを待ち待ちムーミン谷へ向かうところからはじまります。

「さいしょの部分はあこがれ、つぎの二つの部分は春のかなしみ、そのあとはひとりで気ままにぶらつくことの大きなよろこびです」

トーベ・ヤンソン著、山室静訳『ムーミン谷の仲間たち』講談社文庫(1991年),p6

そのしらべは「もうほとんどできあがって」「そこにまって」いるのですが、スナフキンがシチューなべを小川で洗っているあいだにあらわれた「一ぴきのはい虫」にじゃまされてしまいます。

はい虫(さし絵をみると、リスのようないきもの)は、ひとりになりたがるスナフキンの気持ちにもきづかず、興奮してはなしかけます。音楽をきいてみたいな、きいたことないんだもの。ぼくには名前もないんだ、ちいさすぎるから。そうだ、ぼくに名前をつけてよ!(ここでスナフキンがさずける名前は「ティーティー=ウー、はじめはあかるくて、おわりはすこしさみしそうに」)

そんなこんなで、スナフキンはすっかり、つかみかけていた「歌のしらべ」を見失ってしまいます。頭のなかがちいさなはい虫のことでいっぱいになってしまったのです。

・・・

はじめはひとりでいたいと思っていたけど、あるちいさないきものとの出会いで、心がかわっていく。そして、最後にもういちどひとりになることで、完結する。そんなみじかい物語。

このお話にいましみじみと感じいるのは、きっと1年半ぶりに朝からひとりで時間がたっぷりあって、音楽もつけずにストーブの音だけをききながら本を読んだり文章を書いたりしていたから。いま、心のどこかに「静けさ」がすこしづつたまっていくのを感じています。

「静けさ」がたまるのには時間がとてもかかる。邪魔がはいったりあとで予定があったり携帯をみたりして気が散ると、すぐに栓がぬけてたまったぶんも流れてしまう。もういちど、からだを休めて、静けさにひたる、そうすると、

じゅうぶんにたまったとき。というものがおとずれます。

それが、人により時により、音楽だったり、物語だったり、詩だったり、ひとへのやさしさだったり、子どもに愛を伝えるしぐさだったり・・・そういう「なにか」に変化して、そとに出ていく、そう思うんです。スナフキンにとって歌のしらべがそうだったように。

にぎやかな世界としずかな世界。どちらかだけでは足りなくて、どちらからもすこしずつ充電するようにいいものをうけとって、またなにかに変えていく。その移行と変化が、ひとの表現をゆたかにしてくれる。つまり、メリハリをもつということ。あたりまえのことかもしれないけれど、「静けさ」がいかに貴重なものか、考えてみたことがなかった。

物語のなかで、スナフキンはしつこくついて回るはい虫を邪険にしながらも、しだいにそのうるささに慣れ、いなくなったときさみしく思っている自分に気がつきます。その後、スナフキンははい虫をみつけますが、こんどはあいてに邪険にされ、スナフキンはまたひとりになります。

そして、あらためて春の空のしたに寝そべっていると・・・

「かれのぼうしの下のどこかで、あのしらべがうごきはじめました。- 第一部はあこがれ、第二部と第三部は春のかなしみ、それから、そうです、たったひとりでいることの、大きな大きなよころびでした。」

同上, p.23

スナフキンのように自由にはふるまえないけれど、たまには、にぎっている手をゆるめて、ひとりだけのしずかな世界を旅しよう。自分だけの「春のしらべ」をつかまえに。そして、いまだからこそ感じられる、大きな大きなよろこびをあじわいに。





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