動画と文字では、それぞれ何が適した発信内容なのか。
「動画の時代でも文字の役割はきっとある!それは個人の経験とが悩みの「告白」だ!」
と、ある夜に、ふと思いました。
前田裕二さんの『人生の勝算』や、明石ガクトさんの『動画2.0』を読み、(動画2.0はイベントにも行きました)更にはこの頃Tik Tokを隙間時間とかに見ているので、「これからは本当に動画が来る」というのは頭ではわかっておりましたが、なんだかこう、腹落ちしない感がありました。
頭の中で考え続けている中で、ちょうど昨日気づいたのは、多分「文字」と「動画」の役割分担があるんじゃないかなぁと。
動画と文字なら、動画の方が、単純に、わかりやすいんですよね。
視覚は五感ですから、「見ればわかる」ので、理解というか、もう、「感じる」レベルで色んなことがすぐに把握できる。これはエンターテインメントとかと相性良いと思うんです。
これから先も文字で発信してきたことが、動画に置き換わっていくと思うんですが、そんな中でも、文字には文字の役割があると思いました。
それは、真剣な、重めな、自分のこれまでの個人的な経験を「告白」するようなものです。それらは、文字が一番適切だと思うんです。
例えば、「幼い頃に、交通事故に遭って入院をした。本当に大変な状況だった」と文字として読んでみると、なんかこう、その現場とかを見てないですが、辛く暗い気持ちになりませんか。
それはおそらく、その交通事故現場を見てはいないものの、「そうか。交通事故に遭ったのか。痛かったろうに。辛かったろうに」と、その時の状況を踏まえた書き手の気持ちを読み手が「想像」するからだと思うんです。
つまり、文字は、「想像」という余白を残してくれるのだと思います。
悲しい例を出しましたが、逆もしかりで、好きな人に告白する際、動画と手紙なら、もちろん動画も告白する相手のことを感動させられますが、時折やはり、「文字」とかがその動画に入っていてその文字に書いたものを読むと、読んでいる人がそれぞれに想像して、その文字に「重み」を感じながら、耳を傾けると思うのです。
うまく言えませんが、現時点の最大の言語化として、文字は、それぞれの想像に任せる「余白」があるのだと思います。
「古びたドア」と聞いて、僕が想像したドアとその他大勢のドアは違うと思うのですが、「それぞれの自由な解釈」が許されるというか。
で、そんな文字が最も強みを発揮するのは、やはり個人の経験を「告白」する時だと思うのです。特に逆境や苦労とかを語る際、文字のが良いのだと思うのです。
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