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【Album Review】파란노을(Parannoul), 《To See the Next Part of the Dream》 (2021)

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Artist : 파란노을 (Parannoul)
Album : To See the Next Part of the Dream
Released : 2021.02.23.
Label : Self-Released
Genre : Shoegaze, Emo Punk, Lo-Fi Indie


よく使ってる導入だが、まず自分はインディーロックの熱烈なリスナーではない。本作を聴いてすぐさまルーツを浮かびだして感動するロックファンたちと比べて、本作の美徳について理解も共感も足りないという意味だ。もし、本作がRateYourMusicサイトで有意味なハイプを得なければ、自分がこれを聴く可能性もだいぶ減っただろう。

そして、本作は自分が聴く前からすでに問題作として認識された。Bandcampのライナーノートにて音楽家自ら「ルーザー」と自称したのと、収録曲〈청춘반란(Youth Rebellion)〉の「ルーザー無職ニートソロ童貞クズ野郎」という歌詞がSNSでちょっとしたミームで出回ったことは、自分のリスニングにおいてそんなに肯定的に作用はしなかった。

とにかく、リスニングの前から認知した、本作を漂う共感をしようとしなかろうと、50分以上続く粗いギターとドラムの音がそこまで不慣れなものではなかったし、お馴染みのリスナーを惹くには十分だと感じた。自分もCar Seat Headrestの《Twin Fantasy》(2011)のような低音質に過剰な感情を詰め込んだアルバムが浮かんできて(〈Beach Life-In-Death〉のような大曲があるのも含め)、もっとロックに慣れているファンならそれが狙った90年代エモロックレコード、その他の韓国インディーポストロック・シューゲイズ遺産を浮かべられるはずだ。

最初の曲、〈아름다운 세상 (Beautiful World)〉で、曲が本格的に始まる前に「何聴いてるの?」「リリイ・シュシュ」と会話する映画『リリイ・シュシュのすべて』サンプル、そしてデジタル時計カウントダウンと共に爆発するギターストロークは、本作が作る「夢」に進み入るための装置だろう。続く〈변명(Excuse)〉と〈아날로그 센티멘탈리즘(Analog Sentimentalism)〉は提示されたローファイ・シューゲイズ・パンクを疾走感よく表現し、話者の青少年期回帰的状態を紹介する適切なトラックと見える。

疑いの目を一度はらしたきっかけは、本作最長の曲〈흰천장(White Ceiling)〉の成功だ。ポストロック文法で音の密度の緩急を調節し、ピアノとシンセサイザーなどを利用して叙情的なタッチを見せて、後半のハイライトには映画サンプルを通してノスタルジックな感想を最後まで維持する。また曲のコンセプトもアニメーションシリーズ《新世紀エヴァンゲリオン》から派生されたミームを通して話者の文化的背景を現すと同時にその世代が共有する無力感に共感させる。

〈흰천장(White Ceiling)〉だけでなく、それのアウトロを飾るようにして、またテンションを上げて存在を知らせる〈To See the Next Part of the Dream〉、そして続くもう一つの大曲〈격변의 시대(Age of Fluctuation)〉まで―もうちょっと広く見ると、問題の「ルーザー無職…」の〈청춘반란(Youth Rebellion)〉まで―本作の価値を創出する最高の区間を誇る。特に〈격변의 시대(Age of Fluctuation)〉はもっと確実な緩急分配と共にピアノ、ヴァイオリン、シロフォン、フルートなどの楽器を動員してローファイの粗い音質そのものを活用して感情の過剰を効果的に現す。そして直喩を通した表現も収録曲の中でもっと著しく現れる。

〈청춘반란(Youth Rebellion)〉以降の曲ら全般的にテンションが落ちて感想も蒸れるところは惜しかったが、それでも〈엑스트라 일대기(Extra Story)〉の場合は韓国の2010年代インディーロック・リバイバルの香りの延長でそれが共有する敗北主義を本作で一番直接的に告白し、自殺を暗示する最後の曲〈I Can Feel My Heart Touching You〉はライナーノートで提示した「文句と嘆きだけが残っていて、克服などはない」という言葉の実現として適切な結末だと思われる。

こういった敗北主義はいつもあって、それを音楽で昇華する作業はおそらく芸術の本質ともいえるものだろう。本作でもそれを美的に昇華する感動的な地点が重たく配置された。しかし、本作が終わってから、疑いの目をまた取り入れなければならない。表現された敗北主義者そのものの問題と言うよりは、本作のその「時代錯誤的な夢」が受容される過程は気を付けるべきだからだ。

例えば、上では〈격변의 시대(Age of Fluctuation)〉について好評したものの、「偽りの思い出に浸された激変の時代の落ちこぼれ」と告白する話者の態度は―もちろん自分にも理解と共感の領域にあるとはいえ―話者も直視しているように、問題的な態度であることは間違いない。90年代エモロックを目指すサウンドコンセプトすらも作品内では現在を忘却するための逃避行として機能する。それらをSNS時代以降の他者との無限比較と共に自己嫌悪に陥る社会問題とも連携して見れるはずだが、それよりは東浩紀や宇野常寛などが指摘した、とある保護された世界の内部に留まるまま、そこから離れるのを拒否するオタク談論の典型にも見える。いつかキム・ジュンヤンの著書『イメージの帝国:日本列島の上のアニメーション』を読んで、「失われた20年以降の無力感はオタクをもっと消費の社会の内側に委縮して、結局加工された思い出と欲望のシミュラークルを繰り返して消費するだけの集団に転落した」と感想を残したことを思い出させた。

つまり、この感情は見慣れすぎているからむしろ警戒すべきなのだ。パランノウルがレファレンスに『おやすみプンプン』を提示したように、自分の世代には比企谷八幡がいて、自分がもう少し聴き入っているヒップホップ音楽にもBlack Nut、한국사람(KOREAN)などがその有害な劣等感を赤裸々に表現しながら、ヒップホップファンたちからカルト的な熱狂を巻き起こした。しかし現在、彼らが代表してきた20・30代男性の歪んだ劣等感がどう表出されているのか。自らの被害妄想で、彼らよりもっと弱い対象に嫌悪暴力を振るう光景を数えきれないほど目撃しているではないか。(それに、例に挙げたBlack Nutは音楽の歌詞でセクハラ犯罪を起こし、実刑が下された。)そして、自分もまたその同世代の男性の一員でありながら―いや、だからこそ―本作の感情からなるべく距離を置かなければならないと感じている。一時期、それらに熱烈に共感した青少年だったからこそ。

それでもともかく、聴けば聴くほど粗く割れるサウンドの上で感情を刺激するメロディーと夢幻的な世界に導くサンプルなどを乗せた密度のある構成には感嘆を吐く。自分は本作がYouTubeやRateYourMusicなどのプラットフォームを通して共感を得ていく光景に悲観的だが、やはりその過程がなければ自分に届くはずもない音楽だった。今、これを書いているこの瞬間にさえ感じている自己嫌悪の感情は当然自分だけの問題ではないし、一番個人的な問題でありながらも結局は全世界的な問題なのだ。パランノウルはそれを自身の文化的背景と繋げて告白したし、それが自分が思う「Emo」のまっとうな姿勢なのだろうか。果たして本作が―主に西洋圏であろう―リスナーたちのオーバーハイプな反応みたいに、2021年の韓国を代表できる音楽とは思えないが、とりあえずその一連の反応が本作を重要な問題作として浮上させるには十分なアルバムだと考えている。

おすすめ度:★★★★


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