「一言で説明しろ」を張り倒したい

 社会人になってから、なぜかあちこちで「一言で説明して」と言われる事が増えた。仕事で企画を提案している際だけに限らず、今後の流れについて話している瞬間とか、専門家から受けたレクチャーを上司に説明しているタイミングとか、言われる場面は多岐にわたるが、とにかく、言われる頻度はとても学生時代の比ではない。最初の頃は、おれの説明能力がクソなのかなあと思っていたのだが(実際おれは説明するのがあんまり上手くないな、というのは何となく自覚しているが)、その後、社会人向け仕事セミナーとか自己啓発的なヤツに出席するようになっても、どこでも必ずスライドの3枚目か4枚目には「やっていること、やりたいことを一言で説明できるようにしましょう」と書かれていたので、別におればかりがその能力を求められているのではない、ということは分かった。

 しかし、何が面白くて、この人たちは一言で説明させようとするのだろう。曰く「自分の考えを纏めさせる能力」を上げさせるため、とか「顧客に一発で一番必要な情報を送り込む能力」を付けさせるため、とか色々な説明を受けたが、どうもしっくり来ない。色々と考えていたが、何となく仮説みたいなものが見えて来た。それは、

 「この人たちは、自分の脳みそを使って理解するという行為を極端に嫌っているのではないか」

 ということだ。

 町を見渡してみれば、コピーライターが我々の代わりに脳みそを振り絞って考えたのであろう、一行でそのサービスを見事に言い表す言葉が広告を彩っている。文字数が少なく、かつインパクトのある言葉が巨大に印刷されて並んでいる姿は圧巻だ。短くて強い言葉は、広告から飛び出して消費者の記憶に強く刺さり込み、結果的に消費者に購買行動を催させるという、資本主義の銃弾みたいな地位をゲットしている。
 短くて、なおかついっぱい色々な情報を持っている、そういう言葉が大事にされ、ダラダラと長くて大した内容もないものは敬遠され続ける。時間を売り買いする現代社会に於いて、それは当然の宿命なのだろう。

 次の例はどうだろう。

 「すいません、お醤油取って頂けないですか?」
 「はいはい、どうぞ。お酢も取ります?」
 「いや、大丈夫です、…すいません、ありがとうございます」
 「はいはい、どういたしまして」
 「醤油、」
 「ん、酢は?」
 「ん、んん。ん」
 「ん」

 醤油、とか関白親父かよ。
 無駄をするのが、相手に対する礼儀でもあり、贅沢であり、思いやりであり、サービスだったはずだが。
 上司が残ってたらお前も残業しろとか、過剰包装しろとか、コンビニ店員はもっと深く頭を下げろとかそういう話をしている訳ではなく、昔は良かったと言いたい訳でもなく、単純に、もっと言葉を使ってもいいんじゃねぇの?とおれは思うのである。

 「醤油、」「ん」という会話は、親密さを表す会話とも捉えられる。ということは人類全体が親密になっている、という考えかたもできる?
 例えば、世界共通語の顔をしてふんぞり返っている英語。片言英語話者のおれとしては敬語を使う余裕は殆どない。そもそも敬語表現もYes, sir.とかCould you~?くらいしか知らん。となると、おれが英語で話していると、そこは「醤油、」「ん」レベルの言語の解像度の世界になる。
 いや、これは喋り方が能力不足のせいで仕方なくそうなっているだけで、実際に相手と親密なわけでは必ずしもないから、この仮説はないね。はい。

 先日、友人から「J-POPの前奏がどんどん短くなってるって話知ってる?レコードとかCDなら大丈夫だったけど、今のメインは配信なので早く歌詞を歌い出さないと、飛ばされちゃうかららしいよ」と言われて、そんな事あるかいなヒッヒッヒと笑ったのだが、今となっては、実はこれも「一言で説明しろ」の弊害なんじゃないかと半ば陰謀論めいた思考にも陥りかけている。

 先ほど仮説として、(一言で説明しろという言葉の真意は)自分の脳みそを使って理解するという行為を極端に嫌っているからではないか、と書いたが、実は読むのがだるいのではなく、我々はもう、長い文章を読めなくなっているのではないか。noteの段落が異常なほど広く空いてるのも、Twitterに1回に140字しか投稿できないのも、我々は(もちろんおれも含めて)もはやそれを資本主義の加速の代償として捨てて来てしまったから、と考えたら、これも陰謀論かな。

 陰謀論はともかく、「一言で説明しろ」という言葉には間違いなく暴力性が伴う。まず、上下関係がそこにある事が前提になる。次いで、自分の説明に暴力的な編集を求められる。
 そもそも上下関係が付随するから嫌いなのかも知れないな、と思うくらいにこの言葉は理不尽な状況で発声されることが多い。オノレは上役に「一言でこれ説明して下さい」って言えんのかいな、今もし相手がおれではなくてアンタの上役だったらそんな言い方せず、まずはオンドレの脳みそ捻って考えたやろがい、と毎回、おれはこれを言われる度、思っていた。
 そしてこの言葉が二酸化炭素を伴って吐き出されたが最後、言われた側は説明を遡って、核心を突く一言を頭の中で構築せねばならない。この説明も、あんな興味深いポイントも、こんな目新しいメカニズムも全部カットして「はい、一言で言うと『世界にはこんな困難があって、これはその解決に結びつくかも知れない』という事を言いたいのです」とマジで愚にもつかん事を吐く羽目になる。出席している皆が、うわコイツなんや浮ついた事言っとんなと腹で思いながら、それでもフムフムと神妙な顔をして聞いている状況はなんとも面白いが、次の瞬間には猛烈に腹が立ってきて、何でもいいから張り倒したくなる。

 思考(時間)そのものが商品価値を帯びている現在、資本主義に則って考えれば、時給を抑えるためには一言で指示が飛んだ方がいいし、返事も短いほうが良い。会議はなるべく短く済ませ、無駄口を叩かずに、キーボードを叩いて一文字でも多く何かを書くことが至上である。そういう意味では極限状態まで削ぎ落とした状態で、企画は会議にかけられた方が良いのだろうし、1秒も見ないであろう街場の広告の文字数は、なるべく少ないほうが良い。

 しかし、そもそも、我々はそんなに簡単に極限まで何かを削ぎ落とせるのだろうか。ただ、削ぎ落とした気になっているだけではないだろうか。

 「この話の核心はなんなの?」と質問が飛ぶとき、その質問者が理解できてないか、それとも話し手が意味不明な事を言っているか、あるいはそのコンボか、という3つの可能性が大きくは考えられる訳だが、しかし、そもそ提議された「話の核心」とは何だろうと考えるとなかなか難しい。なので、とりあえず苦し紛れに発表者は何かを言って、言葉でせいぜい言い表せる程度の何かを核心だと皆は無理に思い込み、とりあえず核心が言語化されたことで安全なものになったプロジェクトは、泥船のまま進んで行く。

 1行で世界を語るよりも、2時間を尽くして些事を「ああ、そういう事もあるのかもな」くらいのレベルで伝える方に、おれは興味がある。
 もちろん、それは時と場合による。これだけダラダラ書いたけど、おれだって何かを一行で上手く伝えようと頭を捻るし、提案している内容を一言で提示できるように考えてから会議に向かう。
 でも、やっぱりおれは、「一言で言って」という世界より、2時間を尽くしてほんの小さな砂一粒を一生懸命説明する世界を大事にしたい。
 そんなもんオマエの興味やんけ押し付けんな、無駄に喋って二酸化炭素排出するな地球温暖化反対、こっちは忙しいんじゃ!ひと言で説明しろ!と言われたら、
 まあ、それは、それで。とっぴんぱらりの、ぷう。

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