不毛の廣野那須野 那須野が原利水史第二回

 現在の西那須野、黒磯は十万人近くの人口を抱えているが、近代までは不毛の土地であった。那須郡(今の那須塩原市、大田原市、那須町、那珂川町、那須烏山市)の中心は那須野が原の扇央部である大田原の穀倉地帯と烏山、黒羽などの那珂川沿岸であった。古代、那須郡の中心は那須国造碑や侍塚古墳をはじめとした古墳群のある大田原市の湯津上地方や那須官衙があり、神田城など以来那須氏の本拠地であった那珂川町小川とみられる。一方、那須塩原市域の歴史は806年塩原元湯の発見に始まり、1059年の板室温泉発見など、温泉と強く結びついた中で紡がれていった。ここで特記すべきは、1185年に黒磯が開かれたという伝承である。梶原景時率いる鎌倉軍が那須氏の高館城を攻撃した折に鎌倉軍中の黒館五郎、磯勝光が敗走し、黒磯に村を結んだという。しかし、高館城の戦いの存在自体が確証のないものでありこの話は伝説の域を出ないものであろう。ただ、このごろには黒磯に村が成立したのだろう。そして室町時代には、那須氏がその本拠地を福原や烏山に置き、那須七騎といわれる一族や重臣のうち大田原氏や大関氏は大田原や黒羽を拠点としていた。

 さて、那須野が原はどのような歴史をたどってきたのだろうか。那須野が原に関する歴史的な記述は、1193年に源頼朝が大規模な巻狩り(獣の生息する狩場を多人数で取り囲み、囲いを縮めながら獲物を射止める狩猟)を行ったことに始まる。また、那須野が原は「那須の篠原」という歌枕になり和歌にも詠まれており、例えば

もののふの 矢並つくろふ 籠手のうへに 霰たばしる 那須の篠原                      源実朝 「金槐和歌集」

という歌は前述の巻狩りの情景である。

当時は、那須野が原が広大な篠(ささ)の原野でありもっぱら狩場として利用していたことがうかがえる。また、那須野が原の西那須野、東那須野は一般的な扇状地扇央部と同様に不毛の土地であった。江戸時代の歌人である山崎北華の著した「蝶之遊」に1738年当時の那須野が原の記述がある。

聞きしに違はず。竪さま八十里。横或は廿(二十)里。或は十二三里の原なり。草もいまだ長からず。木といふものは。木瓜(ボケ)さへもなし。炎暑の折など如何にぞや。手して掬ふ(すくう)水もなし。

結構言いたい放題である。 意味は

噂の通り、縦は八十里(314km、注 八里の間違いの可能性)、横は二十里(79Km)もしくは十二、三里(50Km)の野原である。草もまだ長くなく、木の類はボケすらない。夏の暑い盛りではどうすればよいのだろうか。手ですくうほどの水もない。

となる。原の大きさに関してはかなり誇張されている(八十里とは東京と仙台の直線距離である、書き間違えの可能性もある)が、不毛で渇水した原野であることは想像できる。とはいえ、全く利用されていなかったのではなく那須西原、東原においては、まぐさ(牛馬の飼料となる草)を得るための入会地であったようである。また、まぐさを得るための焼き畑を行ったこともあったようである。しかし、その広大な原野を十分に利用できず、住民は水を得るのに苦労したというのも確かであった。

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