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予定説(マックス・ウェーバー)

 予定説、というのがある。
 それは「神が救う者は最初から決めている。それが誰かは神のみぞ知る」というお話であり、資本主義が始まるきっかけとなったお話でもある。

 まず、この時の時代背景を見て見ると、免罪符が流行った時代、お金で神の救いが買える時代だった。何をしようが免罪符買えば救われる。
 今の時代と照らし合わせると、ソーシャルゲームのガチャ課金、みたいなモノだ。(違うよ?)

 さてこの予定説、始めて聞いたらどう思うだろうか?
 そしてその後、どんな社会が待っていると思うだろうか?
「助かる人は初めから決められているなら、何をしても変わらないから無駄」と考え、皆何もしなくなって、社会は衰退したのだろうか?
 というか、衰退していないので既に結論は出ている。

 では、人々はどう考えたのだろうか?
 全員では無いにせよ「自分は救われる側だ」と考えた人がいた。そして救われる側なのだから、それを証明するために、頑張った。それはもう神の教えを実行し続けた。
 因みに、この時神の教えの中に「資産を増やしてはいけない」は無かった。(筈だ)
 その為
 ・労働をする
 ・利益が出る
 ・投資してさらに資産を増やす
 という循環が出来、社会は発展した。
 資本主義、の誕生である。

 つまり、資本主義の始まりは「自分は救われる側」という意識が先にあり、資産が増えたのは結果である、という事である。
 厳密に言うなら、「神の教え」の「他者の利益」に貢献した結果、富や名声が集まった、という事である。

 話は変わり、「公正世界仮説」と言うのがある。
 これは「世界は公正に作られている」という仮説、である。(読んで字の如く、である)
 因みに。恐らく日本人の殆どが「神の救済」を信じていないだろう。
 だが、この公正世界は、恐らく信じている人が多いのではないだろうか。

 よく考えて見て欲しい。
 世界が公正だなんて、誰も決めていない。
 努力が必ず報われるなんて、誰も決めていない。

 この「世界公正仮説」はデメリットもある。(当然メリットもあるが、今回は置いておく。そして次回があるとは言っていない。)

 それは何か?
 成功した人を見た時に「努力したから」と決めつける。
 失敗した人を見た時に「努力していない」「努力が足りない」と決めつける。
 何故なら世界は公正だから。(努力しなければ成功しないから)
 そしてそれが弱者批判(自業自得、因果応報、自分で蒔いた種、自己責任)という言葉に現れる。
 そして(批判されようがされまいが)弱者はルサンチマンをため込む。
(自分が認められないのは道徳的に間違っている、社会が悪い、世間がわるい)

 そして公正世界仮説のデメリット部分の、最も象徴的だと思える事件として「1999年5月22日 ブリヂストン事件」と言うのがある。
http://japanlabor.party/letter/990415c.html

 簡単に言うと、リストラを進められた課長が社長室で切腹した、という事件である。
 遺書的な抗議文も残っている。
「従業員をごみくずのごとく扱う経営者の感覚に、一致団結し抵抗すべきだ」
 これは個人の公正世界と会社の公正世界のギャップが引き起こした、痛ましい事件、だと思う。
 何故なら、会社が従業員を生涯雇用する、なんて誰も決めていないのだから。
 ただ、どちらが正しいか、ではなく、人が死なない方法は無かったのか?と思う。

 これらを踏まえ、現代版予定説を考えて見る。

「共同体から報われる人間は最初から決められている。それが誰かは共同体のみぞ知る」

 歴史になぞらえて考えて見よう。
 「自分は救われる側だ」と考えたとしよう。そして救われる側なのだから、それを証明するために、頑張ろう。
 頑張ろうって、何を基準に頑張るの?と気付くと思う。
 昔は神の教え(聖書)があった。では現代版の聖書は何か?法律?道徳?社会通念?
 いやいやそんなもの合っても急激に変化する時代である。そして多様化の時代であり、人によって異なるのは当たり前である。
 聖書は普遍性があった。そして人生の中でそれほど生き方が変わらない時代であった。生きる為の共通の道しるべがあった。
 だが、現代にはない。
 では、何を元にして共同体は報いるのか?そしてそれは普遍なのか?普遍であったなら、何故ブリヂストン事件は起こったのか?
 我々は、何を頑張れば良いのだろうか?

 正直、解はない。
 ただ、他者に報われるために努力してはいけない、と思う。

図1


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写真小作家 みんなのなわたん
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