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迷わず進め!

あるTwitterの投稿で、過去のことを思い出すことがたまにある。

もう30年くらい前の話になる。歳も取るわけだ…大きな転機になった話。今の僕を形成するに至った話といっても言い過ぎではないだろう。

大学進学

高校3年間、控えの投手として甲子園を目指していた。あと1回勝てば東京代表としてセンバツに出場できた可能性があったが、残念ながら準決勝で敗退してしまい、夏の予選もベスト8で敗退。3年間は終わった。

自慢じゃないが、私立に通いながら学年トップの特待生だったので3年間学費免除。野球推薦で無理言って私立に通わせてもらったが、我ながらいい親孝行をしたと思う。

特待生なので進学は当然、推薦で大学に進むことができたが、推薦が取れる大学は限られていて東都大学レベルしか選べなかった。僕が希望していたのは早稲田。この一択しかなかった。推薦は要らない。他の希望者に割り振ってくれていい。僕は一般入試で受けます!担任にも学校にも止められたけど意思は変わらなかった。

すると学年会議が開かれたようで、3年の夏休みに学校に呼び出された。そこには温泉マークも居た。あ、温泉マークとは「うる星やつら」の温泉マークというあだ名の教師。ウチの高校は高橋先生の母校で「うる星やつら」のモデルになった高校なのです(笑)

何事かと思ったらこう言い渡された。

お前は2学期から学校に来なくていいから、入試に専念しろ

は?そんな高校ある?単位はくれてやるから塾へ行けって(笑)

帰りに担任がこう言う。済まんな木村、高校としてしてやれるのはこんなことぐらいだ。学校っていう所はバカに合わせなきゃならんのだよ…
そして頼む!お前が早稲田に入ってくれたら高校のレベルが上がる!だからいい塾に通え!

おいおい、それが本音か!こんな漫画みたいなやり取りがあって、ホントに2学期も3学期も学校には現状報告や滑り止め用の書類を取りに行くぐらいで、ホントに登校しなかった。そして無事、早稲田大学政経学部経済学科に入学を果たす。

短期留学

あぁ、大学に入っても都の西北には通わせてもらえないのね、郊外まで怠いなぁ…なんて思いながら一般教養を何となく聞いていて、あれ?なんか思ってたんと違うなぁ…って思い始めていたある日、「短期交換留学生募集!」のポスターを見掛ける。最初は何とも思わなかった。

元々、高校の学力的に六大学に入るなんてムリゲ~で10年に1人居るかどうの軌跡的確率で入ってしまった。当時の偏差値で早稲田政経に入るには75以上と言われてた。
高校自体は名前が書ければ入れる43、高校入試の時、僕の偏差値は68で周囲が反対したのは言うまでもなく、ホントは早稲田実業を受けたが落ちて野球推薦枠に回った経緯があって早大にリベンジしたかったんだけどね。

で、2学期から浪人生と一緒に研数学館という水道橋の塾に通って早慶特進ゼミで毎日浪人生と学んで受けた学力テストでは72が最高。いずれにしても全然足りてないのに背伸びしてまぐれで合格しちゃったものだから、窮屈で窮屈で仕方なかった。

講義についていくことはできたし内容は理解していた。けど、大きな問題だったのは人種、そこで学んでる奴らが、今まで周りに居た奴らと違って居心地が悪い。

今まではどちらかというと貧乏なバカが多くて、腹抱えて笑うような出来事が多かったのに、大学に入ったら中流家庭で育った無難な奴らばかりで人として面白くない。肌が合わないのだ。

そういう思いが募ってポスターを見つめていると、たまにふらっと講義に現れる同級生の女(名前を知らない)が、

いつも詰まんなそうだから行ってみたらいいじゃん、海外

と後ろから声を掛けてきた。は?僕より詰まんなそうな奴がそれ言う?と思ったけど、それに触発されたのか、講義には出ないで学生課に向かっていた。彼女と話したのはそれが最後だった。留学から帰って来たら大学を辞めていて、その後の消息が分からないので、背中を押してくれたのが最後だった。

いざ、デラウェア!

学生課に行くと希望者が少ない上に締め切りが近いからと、ガイダンスをそこそこに書類を渡され、出発が1ヶ月切ってるから「早くしなさい!」みたいな感じで追われるように旅立つ。

当時はインターネットもスマホもない時代。詳しい情報は渡された資料のみ。行先はデラウエア大学。州立の歴史ある大学のようだがパンフは英語でよくわからない。

現地に到着。僕にとっては初の海外で日本とは違う匂いがした。今でも海外旅行や免税店の匂いを感じると、当時のその光景がふわっと蘇ってくる。変な日本語の現地ガイドに連れられて、大学のガイダンスや構内や周辺地域の紹介があって初日は終了。

2日目以降はカリキュラムに従って行動するが講義以外は自由行動。基本放置で何かあったらそっちから言ってきてねってスタンス。元々アクティブじゃない僕にとっては、戸惑いの何者でもない。
でもだからと言って、一緒に来た奴らと群れるのも性に合わないし、何となくそういう所が日本人のダメなところだなって言う自覚はあったし、英語をしゃべれるようになって帰りたいので、無謀にも一人で行動する道を選択した。

この交換留学プログラムは1か月の短期間。他の奴らはリゾートに旅行に来た感覚なのだろう。僕ははしゃぐ気持ちにはなれなかったので、一人で居ると高校生白書的な青春ドラマな展開が始まる。ウソだろ?って思いながら、ちょっとその展開に乗っかってみる。

「あの人たちとは違うのね」ってマドンナ的少女が登場。
「群れるのが嫌いでね」って返して、握手して自己紹介。
「マドンナに触れるな汚らわしい黄色猿」とマドンナ親衛隊が登場。
血気盛んな僕は先に殴らせてから正当防衛になるようにボコボコ。
共に怒られボランティアをやらされ親衛隊とも和解し仲良くなる。

これが最初の1ヶ月。もちろん、この間、何を言われてるか、何を言ったのかはニュアンス。お互い伝わってない(笑)
だけど、イエローモンキーとジャップだけは聞き取れたので、キレるには十分だったと思う。

仲良くなったのに残念だなぁと思ったら、急に3ヶ月まで伸ばしてもいいと粋な計らい。他の奴らはリゾートに飽きたのか1ヶ月で帰ったが、僕のほか2,3人は期限一杯まで残ることに。

残るって決めたあたりから、相手の言ってることが理解できるようになってた。でも感情を上手く表現できない。聞き取れても話せない、そんな気持ちを知ってか知らずか、仲良くなった奴らと一緒に居たら、自然と話せるようになってた。

そのころから、デリケートでセンシティブな話題にも、意見を求められるようになった。政治や宗教、人種や差別について、そして先の大戦についてもお前の立場を日本人として示せと。日本では避けて通る話題を積極的に求められる。そこには東洋人も何人か居る。こちらを睨んでるようにも見える。

はじめは日本人代表で話せと言われているような気がして、居心地も悪かったし後ろ暗い気もしてたけど、いやいやいや、僕が卑屈になる理由などどこにもないと思い、自分の考えを伝えるようにした。そうすることで周囲の扱いも変わっていったし、日本人に対するイメージが変わったと後に言われることになる。

喧嘩のペナルティとして行かされたボランティア先は、元軍人の保養施設のような場所で、それこそビーチの近くにあるリゾートのような場所。そこに僕は暇なときに足を運ぶようになってた。教会が主催するイベントに参加することはあっても、にわかクリスチャンとなって週末、教会でお祈りを捧げることには少し抵抗があったので、誰も捕まらないときは一人でその施設に行って、先の大戦の事やベトナムの事を聞かせてもらってた。

パールハーバーやミッドウェーって言う知ってる単語が、当時の敵国から出てくるたびに言い知れない感情に襲われたが、不謹慎だが話はとても面白かった。そのジジーがヒーローになってたから多分演出されていただろう(笑)

みんな手足が無かったり、メンタルが崩壊してたりしてた人ばかりだったけど、そのジジー達はみんなカッコよく、そして20そこそこの若造にいろんなことを教えてくれた。

デラウェアーを去る日

3ヶ月の期限が近付いてきたある日、お別れパーティを開いてくれた。てっきり仲間内で誰かの家でささやかに開かれるものだと思ってたら、なんと、良く言ってた保養施設で盛大に街の人たちが開いてくれたのだ。

冒頭にデラウエア大学の学長がこんなスピーチをした。

みなさんが来た初日も同じ話をしました。
デラウェア州はイギリスから独立宣言をした13州のうちの1つ。合衆国法が制定され最初に批准された州(First State)と呼ばれ、未だに大統領就任式では常に最前列という栄誉を与えられています。
デラウェア州は「自由」と「独立」の象徴と称されています。

へぇ、最初にそんなスピーチしてたのかぁ。言葉が分からなかったからなぁ…と思いながら胸熱になりました。

そして、いろんな人からお別れのあいさつとハグされ、やっぱり女性以外のハグは受けたくないなぁと思いながら「面白い日本人バンザイ」と言って送り出してくれました。

最後にジジー達のところにいって、有意義な3ヶ月だった。日本に帰ってこんなに刺激的なことなどないだろうから、この先、どうやって進んでいけばいいだろうと告げると、あるジジーがこう言った。

お前はたった3ヶ月で俺たちの日本人に対する感情を変えた。この街の奴らもだ。迷ったときは他人と接してヒントをもらえ。そしてやると決めたことをやればいい。神風の子孫よ、迷わず進め!

そう笑って乾杯をした。

ジジー泣かせることをww
例えが悪いんだよ…それ以上の言葉が詰まって出なかった。

帰国後、それから。。。

帰国後、大学に復帰。

一通り思い出話や大学に提出したレポートを出し終わった。背中を押した女はもう大学に居ない。講義にも出るし、同級生とも話をするが、何か物足りない。誰と話しても幼稚に感じる。たまに面白いなぁって感じる奴は、みんな大学には来ないし、いずれ辞めていく。彼らにとって、この大学って言う枠は窮屈なんだろうなぁ。僕も、この枠の外にはみ出てるのかもなぁ…とりあえず興味があることを始めようと思って、バイトをしながらアパレル系専門学校とのダブルスクールを始めた。

学費を捻出しながら、大学はほぼ自主休学のような状態。専門学校は楽しかったしそれなりに刺激があった。こっちの方が水が合う。

そして、専門学校卒業と同時に大学を中退し、そのままアパレル企業に就職した。やりたいことはこっちにあったし、その当時はなりたいものになれたからだ。今でも後悔はしてない。これが無ければ、今の自分はなかったし、今の自分はこの経験が形成したもので、いろいろ思い通りにならないことも多いけど結構気に入ってる。

日本に帰って来て刺激がないと思ってたけど、アパレルに勤めてから数年後にバブルが崩壊し、日本国内最大の経済破綻が起こることをこの時はまだ知らない。

人生は選択の連続 選んで悔やむこともあれば 誇りに思うこともある
自分で自分を選ぶのだ

グレアム・ブラウン (ニューヨーク生まれの舞台俳優)


『迷わず進め!』ってお話でした。

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