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0080 尊厳ではなく 「個人」だ

〇 ホセ・ヨンパルト論文の衝撃  

 話を人権大会当時に戻します。

 当時の改憲論が「憲法は、何のために、誰のためにあるのか」という基本コンセプト、あるいは立憲主義のレベルでズレている-ということは、結構早い段階で共通認識になってました。

 では、本来の「正しい」コンセプトは何か?
 それは「個人の尊厳」原理で決まりでしょ…とみんな思ってました。
 なにせ、司法試験の憲法の答案でも、とにかく「個人の尊厳」と書いておけば何とかなると言われてたくらいですから(笑)。

 そんな時、ある先輩から「ちょっと、これ、読んでみ。」と渡された論文がありました。
 ホセ・ヨンパルト先生というスペインから来た法哲学の先生がお書きになられた論文でした。

 これを読んだ時の衝撃は忘れられません。
 いわく、世界には、ロックらを源流とする「個人主義」と、カントを源流とする「人間の尊厳」という法概念がある。
 しかし、両者をごちゃまぜにした「個人の尊厳」という言葉が使われているのは、日本だけ
 外国人からすると意味不明の言葉が使われている、というのです。

 調べてみると、確かに、当時、日本の憲法学会では、この点が大問題になっていて、「憲法学の地殻変動」という表現まで使われていました。

〇 All of the people shall be respected as individuals.

 これで勝負しようと思っていた武器(個人の尊厳)が、ニセモノだった。

 おいおい、どうするねん? 気がつかなかったフリをするか。それとも、正直に問題提起するか?
 正直に問題提起した時、皆が反発し、混乱するのは目に見えていました。

 知らないふりをしようと思えばできたはずです。
 しかし、それは私の良心が許しませんでした。

 まず、「尊厳」という言葉自体には、「尊く厳(おごそ)かであること」という意味しかありません。
 用例を調べてみると、むしろ「天皇の尊厳」という方がぴったりくる言葉です。
 他方、「人間の尊厳」は、カント独特の哲学概念でして、日本語の辞書で調べた程度では、その意味はわかりません(カントの議論は「人間」の「理性」を軸とするものです)。

 次に、「個人の尊厳」原理が語られる時、引用されるのは13条です。
 20年前も、13条こそ日本国憲法の核心だということは、大学で学ぶ憲法学の常識でした。
 ところが、13条に「尊厳」という言葉は出てきません。
 同条には
 「すべて国民は、個人として尊重される。」
と書かれています。
 全ての個人が尊重されるではなく、国民一人一人が「個人として」尊重されると書かれている。

 これは、英文訳だとより明確です。
  13条の英訳は
    All of the people shall be respected as individuals.
です。
              All individuals shall be respected.
ではありません。

   “respected as individuals”

・・・うーむ。
 「個人」individual という言葉自体に、重要な法哲学的意味がある。
 「君は個人として生きているね!」と言われて喜ばなければならない。
そういう類の言葉なのです。

 ところが「尊厳」という言葉をつけなければこの言葉を使いこなせないのであれば、13条の意味を正確に理解していない可能性があるわけです。

〇 国家と個人の共生 !?

 そして、当時の改憲論が、まさにその間違いを犯していました。

「個人に尊厳が認められるのはなぜか?」という問いを立てて、
 「個人は国家や社会に奉仕してこそ尊厳が認められる。」
 「国家や社会に貢献しない個人に尊厳は認められない。

という類の論理を展開していたのです。
 あげく、「個人と国家の共生」などということも語られていました。

 国家と個人が共生するとはどういうことか?
 国家権力と個人との間に対立関係がない、緊張関係がないとされる社会において、国家権力に対する権利、基本的人権なる概念に居場所はないでしょう。

 つまり、13条の対極にある国家主義・全体主義の思想が「尊厳」という言葉を通じて憲法に持ち込まれようとしたのです。

〇 尊厳論争

 そこに気がついたとき、私は腹をくくりました。
 「個人の尊厳」と闘おうと。

 その後の顛末はというと。
 いやあ、しんどかったです。
 当時の仲間と、後に「尊厳論争」と名付けられた、壮絶な議論をしました。
 それだけ、個人の尊厳という言葉が浸透していたのですね。

〇 最後のチャンス

 激しい議論の後、仲間たちも私の意図を理解してくれました。
 しかし、弁護士ですら理解するのに苦労する内容を、市民に発信できるのか?

 最初で最後のチャンスが与えられました。
 熊本県弁護士会が市民向けプレシンポを開催する。
 そこで50分で話す。
 その内容次第で、日弁連の意見とするかが、決まる。

 燃えました。
 結論から言えば大成功。
 この時の発言内容は文章化され、日弁連のシンポジウムで配布されました。
 そのデータが残っていますので、興味があれば御覧ください。

http://www.km-law.jp/miyaoreport/kenpou.pdf

 今読み返すと、言葉足らずのところもあるし、力んでますねえ(笑)。
 ただ、私の人生の中で、最も力を込めたメッセージだったなーと懐かしく思い出します。


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