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人が哲学者になる瞬間1

 哲学、それは現代社会おいて不必要なものに感じられることも多い。ギリシャ時代に始まった哲学は、あらゆる分野を包括していた。哲学者であったアリストテレスは科学や医学に精通していた。現代におけるあらゆる分野の学問が哲学に包括さていた。
 つまり、哲学は時間が進めば進むほど分解されていく。細分化されていき、なくなってしまうかもしれない。哲学の在り方は昔と今では全く違っているのであろう。

 さて本題になるが、スコット・ハーショヴィッツの著書でもあるように子供はみんな哲学者だといえる。あらゆることに疑問を持ち、主体的に探究していく。学者としては、望ましい態度である。
 しかし、成長していけば、あらゆることに疑問が持てなくなる。「そんなことに疑問をもって解決して何になるの?」「もっとやるべきことがあるだろう。」そういった外から向けられる声が大きくなっていく。人間は生まれたときはみんな哲学者であった。成長するに従い、人間は些細なことに疑問を持っている暇などなくなっていくのだ。子供である要素が抜けたとき、いわゆる大人になる。内に潜む哲学者が眠ったとき社会人となるのだ。
 
 内に潜む哲学者が起きる時、それは病んだ時だと思う。人は心が病んだとき、とにかくうずくまり、思索に耽ようとする。
 何が要因で人は病むのか。失恋、借金、無気力、嫉妬、etc.特に失恋と嫉妬は人の心をひどく痛めつける。失恋は、自分に向けられていた行為が途端になくなっていく悲しみ、嫉妬は誰に話せようもない羨みが生み出す悔しさ。
 人間は苦しみの中でもがこうとするとき哲学をする。どうしてこうなってしまうのだ。とか、なんであいつだけ。とか。しかしそれは、子供のころ湧き出ていた素朴な疑問ではなく、現実逃避のための思索である。

 人が哲学者になる瞬間、それは現実から目をそらすときである。


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