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首里城焼失から7か月
首里城が燃えた時、ちょうど首里城のそばに住んでいた。
下の方だったので姿は見えないけれど灰が飛んできた。
当日夜、消防車が通っていったので気になったが、まさか首里城が全焼したとは思ってもみなかった。
首里城の火災で多くの県民が悲しんだ。
私は知った瞬間、悲しみよりは感謝の気持ちを強く感じた。
何となく、沖縄の再生のために首里城が犠牲になってくれたというか、一役買ってくれたように感じて、これから沖縄はこれをきっかけに大きく成長するんだなと、ありがたく思った。
10/30は「世界のウチナーンチュの日」。その翌日の火災。
30数年かけて行ってきた復元工事が2月に終わったばかり。
11/3は首里城祭が毎年行われており、
11/2、11/3には組踊上演300周年記念首里城公演・式典が予定されていた。
後でこれらを知り、やっぱり首里城からのメッセージなんだろうと思った。
戦争で失われた首里城が再建されたのは復帰20周年の1992年(平成4年)
戦後47年経っていた。
アジアと琉球の交流史の研究とともに首里城の復元作業に深く関わってきた、琉球大学の高良倉吉名誉教授(琉球史)は、当時は首里城建設に県民は感心がなく、これまでもなかったわけだから、予算の関係もあるし、なくてもいいんじゃないかという雰囲気で、それは県民だけでなく専門家からの意見も多かったらしい。
私もそうだった。首里城いる?ってかんじだった。
そしてできあがってからも、へぇ~…色が…など好意的にはとらえていなかった。
そんな中で首里城復元に力を注いでいた高良さんは、首里城は過去の再現ではなく、未来のために必要なんだという想いで取り組んできたと話していた。
そして首里城焼失に泣いている高校生や若い人たちの姿を見て、喪失感もあるが、未来のためにという想いで取り組んできたことを実感したというようなことを言っていた。
(2020/5/30放送 OTV報道スペシャル「海の向こうの首里城」より)
首里城復元案にも再建後も一歩引いた立場でいて申し訳なかったと思う。
これまでを反省し、寄付をする時、6度目の再建は全力で応援していこうという思いを強く持った。
【5代目首里城へ】
沖縄はシンボルである、あなたを失った悲しみや喪失感を乗り越えて、大切に思う気持ちを胸に、成長し飛躍していきます。
実際、多くの若者たちが、当然あるものだと思っていたけれど、失ったことで目の前にある自分たちのルーツや文化に関心を持って動き始めています。
5代目首里城、おつかれさまでした。本当にありがとうございます。
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