ドイツ語で犬に話しかけるとき


カユいところを孫の手十本でひっかくほどの世話をうけた。

北杜夫の珍無類の傑作「どくとるマンボウ航海記」は「ドイツでは神妙に、そしてまた」の章からの一節である。

ラーフ・マッカーシーによる英訳を覗くと、さすがに、この部分は直訳ができなかったらしく、表現が変えられている。

Mr. Y was an extraordinarily hospitable gentleman who ended up looking after me the entire time I was in Germany.

欧米には「孫の手」なんかないだろうと思っていたが、ブリタニカ大百科事典の第11版には出ているそうである。

しかし、これは100年前に出版されているので、現在では、孫の手を備えている家庭は、欧米ではまれではないか。いったい、ひとり暮らしの人は、背中にカユいところがあっても、我慢しているのだろうか。

マンボウ氏の航海記には、ハンブルクの埠頭で、7歳ぐらいの少年とドイツ語で会話をする場面があり、「なるほど子供にはお前といってしゃべらないとどうも通じない」と記している。

日本に帰ってから、マンボウ氏がこの話を知人にすると、犬でも同じ反応がみられると言われた。

"It's the same with the dogs, he said. "Call them 'omae' and they bark and wag their tails. But if you look at a dog and say 'anata', he just stares back at you goggle-eyed"

「そりゃあ犬だってそうだぞ。お前って話しかけてやればワンなんて言いやがるが、犬にむかって、あなたは、なんて言ってもキョトンとしてるよ」

この箇所の英訳がおかしい。この場面は、すべてドイツ語の第2人称をめぐる問題を扱っているのに、英訳者は、それに気づいていない。

日本語にも、相手を指す語にあなた、そなた、おまえ、御身とかいろいろあるが、あまり使わない。英訳者は、このことをすっかり忘れていたのだろう。犬に向かって、日本語であなたと呼びかけたり、おまえと話しかけたりしているように訳している。

完成原稿をだれか日本人に読んでもらえばよかったのにと思う。そうすれば、この箇所は日本語のあなたとおまえをローマ字にして訳出することなく、ドイツ語の第2人称を使って翻訳するように、注意を受けたことであろう。

なぜ、訳者は勘違いをしたのか。ドイツ少年の場面では、ドイツ語の第2人称をそれぞれ出して上手く訳しているにもかかわらず。

Unaccustomed to addressing anyone with the familiar du,
I kept calling the boy Sie -……… 

日本語では、犬にむかって第2人称を使うことはほとんどなく、ペットの名を使うか、第2人称の主語は省略することに気づかなかったに違いない。

また、ドイツ語の第2人称は、子供と動物に対して同じもの(Sieではなくdu)を使うという、マンボウ氏の意図が見抜けなかったこともあるだろう。

それから原文に「この話を帰ってきてからAにすると」とあるので、ここは日本の犬の話だと考えたのではあるまいか。

ことほど左様に、外国語の文章を読んで、著者の真意を的確につかむことは、むつかしい。特にこの本は、ホントかウソか即断できないような部分に満ちあふれているから、なおさらである。

大学で第2外国語語を習ったとき、ドイツ語とおなじようにフランス語にも、第2人称はふたつあることを知った。

フランス映画を見るとき、恋人どうしがどちらを使ってしゃべっているか、あなた(vous)からおまえ(tu)に切り替わったのは、なぜかなどと深く考えたことは一度もないが。

以前に紹介した英仏辞典を覗くと、動物にフランス語で話しかけるとき、かならず、子供、家族、友人に語りかけるときと同じ語(tu)を使うと記されている。

また、フランス人と会話をはじめるとき、丁寧な形の2人称を使い、かなり親しくなったときは、相手のほうから2人称を変えて(つまり、vous からtuへ変えて)話しましょうかと切り出すまで待つほうがいいと記されている。

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