「洗脳」はなぜ「染脳」ではないのだろう

「なんで?」という感情で考えのトンネルを掘っていくと、とてつもない説にぶち当たるときがある。


昨日見た「洗脳」というワードが、何だか妙に気になり、ふと【洗脳って、脳みそを洗う】って書くんだなぁと、そのことを考えてみたくなったのである。


調べてみると、洗脳は英語で"brainwashing"
この英語が語源らしい。


「脳みそを洗うって、分かるようで分からない。一体どういうことなんだ??」


自粛ライフでやることがなくなると、そんなことを考えるようになるのかとびっくりしつつ、久しぶりに鈍った頭を回転させてみた。


——「洗う」とは、水などを使って汚れを取り除くことを意味する。


とすると洗脳とは、今持っている汚れた思考を取り除き、正しい思考に戻してあげる行為ってことなのだろうか。


そんなことを考えた。


もし本当にそれが由来だとすれば、
ちょっと背筋がゾッとしてくる。


洗脳をするとき、根底には「今持っている思考は本来のものから外れた汚れであり、それすなわち悪だ」という前提があるのだろう。

正しい(とされる)思考を"上塗り"する「染脳」ではなく、汚れた思考を洗って本来の正しい(とされる)思考に"戻す"「洗脳」であることに、恐らくきちんと意味があるのだろう。



このことに気づいたとき、言葉とは何とも奥深く、よく出来ているな、と思わずにはいられなかった。


ハッと思って筆を走らせたため、「洗脳」になった本当の経緯は調べられてないのだけど、頭をフル回転させて自分なりの"こういうことではないだろうか?"説にたどり着いたときの感動は、何とも言えない快感である。


自分の思考のトンネルをどんどん掘っていく。


複雑な脳の深海をゆっくりと沈んでいく。


遠い昔の記憶や、あの日読んだ本の話。


そういうものを辿りながら、
どんどん脳の深部へと潜っていく。


この「潜脳」作業の先に、
自分だけの説が誕生するのだと思う。

#エッセイ #コラム #キナリ杯

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