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濱口竜介 - 悪は存在しない(2023) Evil does not exist.

2023年ヴェネツィア国際映画祭コンペティション選出作品。対話可能性と対話不可能性のバランスの危うさを描いているのはなんだか『ハッピーアワー』を彷彿させた。撮影に『ハッピーアワー』の北川喜雄が参加しているので、もう一度『ハッピーアワー』を観たくなる。

物語は、都心から3時間ほどにある自然のなかの村。冒頭、石橋英子の音楽とともに、木々を仰角で捉えるシーンからはじまり、ザクザクと雪を踏みしめる音がかぶさっていく。主人公のタクミは忘れっぽく、いつも娘ハナのお迎え時間を忘れ、ハナはそれを当たり前のように受け止めてひとり、山を歩いて家に帰るという日常を繰り返している。そんな日々のなかで、村の上のほうにグランピング施設が建つ話があがり、東京の芸能事務所を本業としている会社の人々と話し合いの場が設けられるが、施設の計画は、村の人々の生活を脅かすほどずさんな計画だったことが分かり…というあらすじ。あらすじというものがあるのかないのか、カットは不自然につながっていき、忘れっぽいタクミの生きる時間軸とハナが生きる時間軸、そして東京からやってくるマユズミとタカハシも違う時間軸を生きているような気がする。最初は悪者だった東京組が村の人々と対話し、計画に無理があると知ってなんとか両者のあいだに立とうとするし、タクミも自分たちもそもそもよそ者だし、ここはよそ者を受け入れてきた土地だから、だからまずは話そう。と寄り添おうとする。しかし、穏やかな世界で暮らす人々と自然の驚くほどの美しさを観ていたはずが、気にしないぐらいにそっと不穏な軋轢が日常に裂け目を作り、やがて、神話の世界のようなもやがかかった世界へと導かれてしまった。マユズミとタカハシの二者とタクミの言葉は噛み合わないし(グランピング施設建設予定地は、鹿の通り道なんだ。というタクミに対して、鹿が人を襲わないのであれば、いいんじゃないでしょうか。と返すマユズミ。理解と敬意ではなく、ただ憧れだけで村に越してこようとするタカハシ。立っている場所が違うが故に、互いが互いを理解できない)、この三者のシーンは、なんだかゾワゾワする。加えて、自然をカメラが横移動・長回しで映し出すとき、石橋英子の音楽とあわさって、すばらしい美しさをたたえつつ、それでもなんだか不気味な予感を醸し出していた。それは、理解しきることができない自然への畏怖の念のように感じる。だからこそ、タカハシやマユズミの言葉は、タクミには響かない。不穏な(神話的)ラストは、敬意をもたない他者が介入しすぎた結果、バランスを失った先の悲劇だ。ただ、それは立つ場所が違うからこそ起きたすれ違いであり、タカハシやマユズミに共感を持って(どちらかというと都市に生きる観客はこちらのほうに共感できるかも)描かれているように思えたところから、「悪は存在しない」というタイトルなのかもとおもった。フレディ・M・ムーラーの映画を思い起こすと同時に、他者の場所に立って映画を撮った佐藤真のことを思い出したりした。


2023年、日本、106分、カラー、1.66:1
監督:濱口竜介
脚本:濱口竜介、石橋英子. 撮影:北川喜雄
長野県水挽町。自然が豊かな高原に位置し、東京からも近く、移住者は増加傾向でごく緩やかに発展している。開拓世代3世の巧とその娘の花の暮らしは、水を汲み、薪を割るような、自然に囲まれた慎ましいものだ。しかし、ある日、この町にグランピング場を作る計画が持ち上がる。コロナ禍のあおりを受けた芸能事務所が政府からの補助金を得て計画したものだったが、森の環境や町の水源を汚しかねないずさんな計画だった…。

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