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山中瑤子『ナミビアの砂漠』(2024)カナ=魔女を裁かない

「ナミビアの砂漠」を観た。あたしはいつだったか話題になった「私は最悪。」が大嫌いで、自己実現のために多くの人を傷つけて、最悪であっても大丈夫だと言えるエンディングに打ちのめされてしまったことがある。なんとなく、そのときの盛り上がり方に評判が似ていて、「ああこれはあたしはダメかもな〜」と思いながら、恐る恐る観たのだった。2時間17分のうち、2時間は苦痛だった(唐田えりかの登場に救われた)。女を孕ませたハヤシにぶちぎれるカナだって、ホンダには中絶したって嘘をついて苦しめていて、そんなのズルいじゃんかと思っていた。でも、身体の構造によって、どうしても経験や強いられるものに差異が生まれてしまう社会の状態に憤ることができるカナはかっこいいともおもうし、だからって目の前の人に不誠実でありたくないとも思う。一方で、「わかるよ。傷ついているんだよね。感情を押し殺してるんだよね。俺はカナのことわかるよ。」と口に出せてしまうホンダに対して、お前はなんなんだという怒りも湧いたし、家族周りのバーベキューに連れ出したのにまったく間を取り持ってくれないハヤシのことも大嫌いだった(そういうことされたことあるよ。あのぽっつり自分だけが宙に浮いてる感は親近感しかなかった)。全員に対して、「ヤダな〜」と思ったのは、映画によって照らし出された”あたし”だった。そして、不誠実であってしまう現在を作ったのは誰なのか、無気力になったり突然火を吹いたように怒り出したり、絶望したりする現在をつくったのは誰なのかを問われているような気がした。

そんな、自分の立っている地の感覚すらないまま(カナの歩き方はそれだった。引力に包み込まれることを拒否した身体。ままならない身体の浮遊が漂っている。)生きることを強いられたカナが、身体の浮遊すらできなくなっていったゆえに見つめた自己の深淵がじょじょに深まっていくとき、カナとハヤシが同じ画面上で向かい合ってスクリーンに並置される。これまでハヤシ・ホンダに対して物理的に上に立つこと・上に位置することでカナの暴力性・権力勾配を示していたことを思うと、こうやってハヤシと向かい合い、甘えた声でも怒鳴り声でもない至ってなんでもない声で「わかんない」と答えることのラストにおいて、カナがようやくあらゆるしがらみから少しだけ解放されていったのだと感じた。

五所さんがパンフレット寄稿の最後に「もう魔女が焼かれませんように」と書いていて、思えばカナはめちゃくちゃ黒猫みたいだったし、つまり黒猫は魔女の化身でもあって、カナは魔女だったんだ!と気づいた。そして、あたしを苦痛から救ってくれた唐田えりかとのキャンプファイヤーのシーンにおいて、火を飛び越えるすばらしいシーンがなぜ素晴らしいかの答えをもらった気がする。魔女の儀式でもある火を囲むこと、そして魔女を弾劾するために使われた火を飛び越えること、キャンプだホイの遠くから鳴っている歌が、ここでいま生存することの不気味さとそれでも重力なんか無視して、火炙りを軽やかに飛び越えることの抵抗がギュッと濃縮していた気がする。

矛盾だらけ、わからないことだらけで、縦にも横にも、そして奥深くにのびるような「カナ」というキャラクターを体現した河合優実がただただ凄かった。


21歳のカナにとって将来について考えるのはあまりにも退屈で、自分が人生に何を求めているのかさえわからない。何に対しても情熱を持てず、恋愛ですらただの暇つぶしに過ぎなかった。同棲している恋人ホンダは家賃を払ったり料理を作ったりして彼女を喜ばせようとするが、カナは自信家のクリエイター、ハヤシとの関係を深めていくうちに、ホンダの存在を重荷に感じるようになる。

https://eiga.com/movie/101627/

PG12|2024|日本|137分|
監督・脚本:山中瑶子
撮影:米倉伸
出演:河合優実、金子大地、寛一郎、唐田えりか

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