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あの部屋の景色 #2(短編連載)

#1はこちらです。

※この物語はフィクションであり、実在の場所、人物、出来事などは現実とは一切関係ありません。

ぜひ創作物としてお楽しみください。


「あ、すみません。えっと……妹尾さん」
 ベッドわきに置かれたファイルを見ると、名前欄には「妹尾 正」と書いてある。見覚えのない名前だったが、新しく入った患者だろうか?そんな話は先輩から聞いていないのだが…。考え込んでいると「なあ」と妹尾が声をかけた。
「あんた、初めて見るな。名前はなんていうんだ?」
「あ、えっと、寺田と言います。今日から妹尾さんの定期回診をさせていただきます」
「寺田さんか。下の名前はなんていうんだい?」
「え……麻衣子、と言いますけど」
「じゃあ、まいちゃん先生だ」
 妹尾はからからと笑いながら、細い腕をこちらに伸ばして麻衣子の前に手を差し出した。突然の事でしばらくわからなかったが、すぐに握手を求められているのだとわかり麻衣子はおずおずとその手を取った。手は枯れ木のようにかさかさで、冷たかった。
「俺は妹尾正って言うんだ。よろしくな、まいちゃん先生」妹尾はそう言うと顔のしわをさらに濃くするように笑った。
 あっけにとられていると妹尾は「さて、先生も忙しいだろうし、早く始めようか」と促された。麻衣子は慌ててペンを取り、チェックリストにチェックをしていった。
 麻衣子はこんなに友好的な患者に初めて出会った。もちろん優しい人もたくさんいる。しかし、どんなに優しい患者であっても、最初は緊張と自分の身体への不安で、自然と相手に壁を作ってしまうものだ。その壁をゆっくり取り払い信頼してもらうために麻衣子達は彼らに何度も何度も声をかけ、話を聞いていくのだ。
なのに、この妹尾という老人は最初から心を開いてくれているように麻衣子は感じられた。まるで見舞いに来た旧友に自分の体調を話すように質問に答えてくれる。しかも、その声からは不安や恐れがまったく感じられない。天気の話でもするように自分の不調を伝えている、麻衣子にはそんなふうに見えた。
すべてのチェックが終わり、ファイルを戻して「では、今日はこれで終わりです」と言うと、妹尾は「わかった。ありがとう」と少し禿げかけている頭を下げて、また微笑んだ。感謝の言葉をかけてくれる患者はもちろんいるが、何故か妹尾からの言葉は麻衣子の荒んだ心に優しく響いた。
「明日もまた来ますので、何か変わった事があればすぐに教えてくださいね」
「ああ、わかったよ。すまないね、先生も忙しいだろうにこんなじいさんの世話させちまって」
「いいえ、私なんてこれくらいしかできませんから」
 小さな溜息と一緒にそんな言葉が麻衣子の口から漏れ出した。何気ない、本当に自然に飛び出た言葉だった。言った後で「何故こんなに卑屈な言い方をしてしまったのか」と、麻衣子は心の中で自己嫌悪した。
妹尾は少し黙っていたが、やがて静かに言った。
「まあ、先生にだって色々あるわな」
そしてポケットから何かを取り出すと、それを麻衣子の手に握らせた。手をひらいてみると、小さなミルクキャンディーが一つ。
「疲れた時にはこれ食べると元気になるんだ」妹尾はそう言って、また優しく笑いかけた。
麻衣子は妹尾の顔を見る事が出来ず「では、また明日」とだけ言い残して、急いで病室を出た。そうしないと、あの場で泣き崩れてしまいそうだったからだ。久しぶりに労いの言葉に気持ちの整理をつける事ができなかった。
自分を労わり、心配してくれる人がいる。そう思うと、それまでささくれ立っていた気持ちがすーっと軽くなっていく気がした。
麻衣子はしばらく妹尾の病室の前にしゃがみ込み、静かに涙を流した。


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