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あの部屋の景色 #5(短編連載)

#4はこちらです。

※この物語はフィクションであり、実際の人物、場所、出来事とは一切関係ありません。

どうぞ創作物としてお楽しみください。


 その日から、麻衣子は異動に向けて準備を始めた。通常の仕事に加えての準備だったので大変だったが、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。むしろ、忙しい事を前向きにとらえられるようになり、慌ただしい中にも充実した日々が続いた。
 麻衣子はどんなに忙しくても、患者と触れ合う事をやめなかった。忙しい時ほど親身になって彼らの言葉に耳を傾けるよう努めた。そうする事で、少しでも患者の不安を和らげる事が出来れば。それが今出来る精一杯の事だと麻衣子は思った。
 あの日から、妹尾と会う事はなかった。時折病院内を歩いきながら病室のネームプレートを見てみるが、何故か妹尾の病室を見つける事はなかった。
 やがて冬が過ぎ、桜の芽がほころび始めたころ、麻衣子の異動日が正式にきまった。仕事だけでなく、身の回りの準備も進めていった。引っ越しの準備や転居手続き、各所への連絡。家でも病院でも目まぐるしく日々が過ぎていき、あっという間に異動日が来週に迫った。明日からは異動の準備期間なので、この病院で仕事をするのは実質今日が最後となる。
 あらかた引継ぎも終わり、あとは細々とした手続きだけになっていた。少し時間が出来た麻衣子は、最後の回診へと向かった。
 窓を見ると、既に日が傾いて空は澄んだ春の青色から、柔らかなオレンジ色に変わりかけていた。青とオレンジのグラデーションがゆっくりとその形を変えていく様はとても美しかった。
 麻衣子は病室を一部屋ずつまわり、回診と別れの挨拶をしていった。何人もの患者から礼を言われ、中には涙を流してくれる人もいた。自分が思っている以上に患者から信頼されていた事を知り麻衣子は驚いた。自分はちゃんとあの人達と向き合えていた——そう思うと、麻衣子の心に喜びがあふれだした。
 一人一人丁寧に回診をし、病室を出ると空はすでに完全な茜色に染まっていた。少し時間をかけすぎたかもしれないけど、最後だし仕方ない——そう思い、麻衣子が廊下を歩きだした。だいたいの人への挨拶は終わった。しかし、まだ一人だけ挨拶できていない人がいる。その人にもちゃんと別れを告げないと、きっと後悔する。麻衣子は廊下を進んでいった。
 なんとなく予感はあった。しばらく歩いてふと目を上げると、見慣れた病室の扉があった。
他の病室より少し古ぼけたドアを麻衣子は軽くノックした。そしていつもと同じように「失礼します」と声をかけてからゆっくりと開ける。そこにはいつもと変わらないセピアの世界が広がっていた。そしてその世界で一人座っている人物が、こちらを見て優しく微笑んだ。
「久しぶりだな、まいちゃん先生」

「ええ、来週から異動になりました。準備もあるので、ここに来るのもこれで最後になります」
 そう言うと、麻衣子は白衣の胸ポケットからペンを取り慣れた手つきでチェックリストに必要事項を記入していった。体温は安定しているけど、脈拍が少し乱れている。
あとで担当の看護師に伝えておこう——そう思いながらリストをベッド脇に戻し、麻衣子は視線を上げた。
 春になったとは言え外はまだまだ寒いし日の入りも早い。西向きの窓からは、既にやわらかな茜色の光がレースのカーテンを透かして流れ込んでいる。カーテンが空調で揺れるたびに、床に映る影がくるくるとその形を変えていた。
「そうかい。まいちゃん先生が居なくなると俺も寂しくなるな」
 妹尾は少し残念そうに眉を下げながら、しかし穏やかな声でそう言った。喋るたびに肉の少ない喉がせわしなく動いているのが見て取れた。
「私も、妹尾さんに会えなくなるのは寂しいです。前々から打診はあったのでいつかは、と思ってたんですけど。思ったより早かったですね」
 麻衣子は近くにある丸椅子をベッド脇に持ってきて、妹尾の目線に合わせるように腰かけた。妹尾は麻衣子の目を見て少し微笑んでから、小さく何度もうなづいた。
「良い事じゃないか。まいちゃん先生の頑張りが認められたって事なんだろ?俺はお医者さんのお仕事はよくわからないけど、先生が頑張ってるのはよくわかるよ」
「妹尾さんにそう言ってもらえるとほっとします。まあ、本当に場所が変わるだけで立場は今とほとんど変わらないんですけどね」
「そんな卑屈な言い方するもんじゃないよ。自分の出した結果はちゃんと受け止めなきゃ。それが悪い事でも、良い事でもね」
 妹尾は手を伸ばし、麻衣子の手にそっと乗せた。妹尾の手は冷たくて骨張っていてかさかさしていた。しかし麻衣子にはその手は何よりも温かく、柔らかく感じられた。麻衣子は乗せられた手に自分の手を重ねて「ありがとうございます」と小さく言った。

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