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あの部屋の景色 #6(短編連載:最終話)

#5はこちらです。

※この物語はフィクションであり、実在の人物、場所、出来事とは一切関係ありません。

どうぞ創作物としてお楽しみください。


「じゃあ、そろそろいきますね」
 麻衣子は名残惜しそうに妹尾の手を離し、椅子から立ち上がった。丸椅子を元の場所に戻すと、もう一度妹尾に向き直り、深々と頭を下げた。
「妹尾さん、今まで本当にお世話になりました」
「こちらこそ、まいちゃん先生には世話になりっぱなしだったな。ありがとう」
 妹尾も少し居住まいを正し、深く頭を下げた。
お互いに頭を上げ、少しだけ見つめ合う。多分もう会う事がないだろうと麻衣子はわかっていた。少しの間の後、麻衣子は振り返ってそのまま病室の出口へ手をかけた。背後からは今も赤々と夕日が燃えている。もう一度振り返りたい気持ちを抑え、麻衣子は一気に扉を開けた。

目の前には、薄汚れた病院の廊下が左右に続いている。ところどころに段ボールやゴミ袋がまとめて置かれ、元は白かったのだろう壁も埃で汚れていた。
天井にぶら下がる蛍光灯はところどころ割れていたり切れかかって忙しなく点滅している。点滅に合わせて照らされる廊下が、長い事使われていない事は明らかだった。
そしてひびの入った廊下の窓には、すでに夜のとばりが降りていた。空には白い三日月がかなり既に高い位置にのぼっている。どこを見てもあの部屋で見た夕日は、滲むような茜色は、どこにも見つける事はできなかった。
「寺田先生」突然呼ばれたのでそちらを振り向くと、中年の警備員が懐中電灯を片手に立っていた。
「何してらっしゃるんですか?こんなところで、しかもこんな時間に」
 そう言われて、麻衣子は腕時計を見てみた。時刻は既に面会時間も終わり間もなく消灯時間だった。
「ここは」麻衣子の問いに、警備員は怪訝そうに眉をしかめた。
「ここは旧病棟ですよ。今は立ち入り禁止になってたんですけど。先生はこんなところで何を?」
 麻衣子はふと自分がさっきまでいたであろう病室を振り返ってみた。
 病室だった場所には何もなく、ただがらんとした空間だけが広がっていた。窓は木の板で閉鎖され、廊下から漏れるわずかな明かり以外は真っ暗である。
「先生?その部屋に何か?」
黙って部屋を見ていた麻衣子に、警備員はもう一度声をかけながら、麻衣子の視線の先、病室だった空間に懐中電灯を向けた。照らされる部屋の中には、風に踊るレースのカーテンも、映るのかもわからないブラウン管テレビも、やけに旧式の医療用ベッドも、そんなものはどこにも見当たらなかった。
「先生、大丈夫ですか?」少し声を上ずらせながらの警備員の問いに、麻衣子は諦めたように小さくため息をついた。
「すみません、大丈夫です。この病院も今日で最後なので、色々と見ていたらこんな時間になってしまって」
 そういうと麻衣子は出口に向かって歩き出した。警備員も慌ててその後についていく。
「こんなところも見るなんて、先生も物好きですね。ここ、昔この病院で死んだ人の霊が見えるってもっぱらの噂で、誰も近づこうとしないんですよ……——」
 警備員の言葉を片耳で聞きながら、麻衣子は薄汚れた窓からもう一度空を見上げた。
空に浮かんだ青白い三日月が、今も静かに麻衣子を照らしていた。
 

終わり

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