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あの部屋の景色 #4(短編連載)

#3はこちらです

※この物語はフィクションであり、実際の人物、場所、出来事とは一切関係ありません。

どうぞ創作物としてお楽しみください。


「おお、まいちゃん先生、久しぶりだな」
 麻衣子は吸い込まれるように妹尾の近くに行き、ベッド脇にあるパイプ椅子に力なく腰かけた。そして黙ったまま何も言えず俯いてしまった。妹尾はそんな麻衣子に声をかける事もなく、ただ静かに麻衣子の傍らに座っていた。
「私…——」やがて、麻衣子がおずおずと喋り出した。妹尾は麻衣子のほうを見ないまま、黙って聞いていた。
「私、今度異動が決まったんです。ここから新幹線で行くぐらい遠いところに。異動自体は凄く良い事で、今よりもずっと良い環境でお仕事できるようになるんです。それはとてもうれしい事なんですけど。でも、私なんかがどうして?って思ってしまって…。まだまだできない事もたくさんあるし、こうやってすぐに悩んでしまうし。新しい環境になって、うまくいく保証なんてなくて…」
 麻衣子の口からぽろぽろと零れ落ちる言葉を、妹尾はただ黙って聞いていた。
「私、不安なんです。今より期待されて、その期待に応えられなかったらって思うとすごく怖くなって…。それよりも、ここでまだまだ勉強して、もっと自信をつけた方が良いのかな、とか考えてしまって。そんなふうに考えてしまう自分が、情けなくて…」
 いつしか麻衣子の目から小さな雫が流れ落ちていた。それは静かに流れて落ちて、膝に置かれ硬く握られた自分の手の甲を濡らした。
「それに……もしこの病院から離れてしまったら、もう妹尾さんに会えない。妹尾さんがいるから、私頑張れたのに。それが、すごく不安で……」
 そこまで言うと、麻衣子はまた口を閉じた。茜色に染まる病室には麻衣子のすすり泣く声だけが聞こえ、夕暮れの喧騒も聞こえてこなかった。
 やがて、妹尾はゆっくりと身体を麻衣子に向けると節くれた細い手を麻衣子の手にそっと添えた。その手は初めて握手した時と同じように硬く冷たかった。しかし何故か麻衣子にはその時はとても温かく、柔らかく感じられた。
「ありがとうな、まいちゃん先生。そんなふうに言ってくれて。俺も先生と話すのはすごく楽しかったし、救われてたよ」
 妹尾は麻衣子の手に触れたままそう言った。麻衣子は力なく頭を横に振る。自分は妹尾に助けられてばかりで、救った事なんてない——そう思った。
「先生には、よく娘の話をしていただろ?実はな、あれは全部嘘だったんだ」
 麻衣子は思わず顔を上げた。妹尾は穏やかに微笑みながら麻衣子の顔を見ている。妹尾の手に、少しだけ力がこもった。
「本当は娘はもうずいぶん昔に死んじまったんだ。交通事故でな、旦那も孫も、みんな俺より先に逝っちまった。俺は仕事仕事でなかなか娘に構ってやれなくてな。結婚して家を出てからは、本当に話す機会がなかった」
 妹尾はいつしか、茜に染まる窓を見つめていた。光に照らされ細めながら遠くを見るその目は、穏やかだけどとても悲しそうに見えた。
「あいつが死んで、もっと構ってやれば良かったと思ったよ。もっとたくさん話しておけば良かった、とね。毎日のように後悔したよ。娘にしてやりたかった事、してほしかった事、それがもう二度と叶わないって思うと、本当に辛かった」
 そこまで言うと妹尾はまた麻衣子の方を向き、より力強く麻衣子の手を包んだ。麻衣子もいつしか、妹尾の手を強く握っていた。
「だからな、まいちゃん先生。先がわからなくて不安な事はたくさんあるだろうが、後悔の残るような事はしちゃいけないよ。俺みたいに、あの時ああしていれば、なんて言うような事はしちゃいけない」
 妹尾の声は強く、そしてどこまでも温かかった。麻衣子は妹尾を見つめたまま、自然と小さくうなづいた。窓の外では、夕日がゆっくりと沈み始めていた。
「大丈夫だ、まいちゃん先生ならきっとどこへ行ってもうまくやれる。こんなに優しくて頑張り屋の先生なんだ、きっと大丈夫だ。俺が保証するよ」
 そういうと、妹尾は握っていたそっと手を離して麻衣子の頭を優しくなでた。細く痩せた手で何度も何度も、まるで自分の娘にそうするように。
 いつしか、病室は夕暮れの茜色から、夕闇の色へと変わっていた。もうすぐ、夜が来る。
「妹尾さん、ありがとうございます」
 夜が近づく病室で、麻衣子はまた静かに泣いた。そんな麻衣子を妹尾は優しく見つめながら、いつまでもその頭を撫で続けていた。


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