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あの部屋の景色 #3(短編連載)

#2はこちらです。

※この物語はフィクションであり、実在の場所、人物、出来事などは一切関係ありません。

ぜひ創作物としてお楽しみください。


 それから毎日、定期回診の一番最後に妹尾の病室へ行き、そこでチェックをしながら立ち話をする事が麻衣子の日課になった。
妹尾の部屋はいつ行っても西日のセピアに彩られ、そこではすべての時間が止まっているように感じられた。妹尾は麻衣子の問いに答えながら、時折自分の話をするようになった。妹尾には娘が居り、良く見舞いにきては色々と世話をしてくれる、と彼は言った。
「娘に甘えるなんて父親としては情けないけどな」はにかみながら笑う妹尾を見て、麻衣子は少し可愛らしいと感じた。
「今日娘がリンゴを剝いてくれたんだ。うさぎ型に切ってくれてな、あんまり可愛いから食べるのがもったいなかったよ」
「今日は娘の旦那が一緒に見舞いに来たんだよ。ありゃ良い奴でな、娘も良い男を捕まえたなって思うよ。本人には言ってやらないけどな」
「娘に勧められた本を読んでるんだ。この年になると長く読むのは苦労するが、温かくて、優しい話なんだ。今度まいちゃん先生にも貸してやるよ」
 妹尾の話には、いつも娘が出てきた。娘の話をする時の妹尾は本当に嬉しそうで、娘の幸せを心から願っているだろう事が見て取れた。
娘さんは、本当に妹尾さんに愛されてるんだな——麻衣子は幸せそうに話す妹尾の笑顔を見ながらそう思った。しかし麻衣子がこの病室でその娘に会う事は、一度もなかった。

「寺田先生、近々別の病院に異動になったから。諸々引継ぎよろしく」
  異動の話を聞いたのは今年のはじめ。冬の寒さが特に厳しく、午後には雪が降るとテレビで言っていた。
 麻衣子がこの病院に勤めて数年、いつの間にか先輩から怒られる事もなくなった。患者からも信頼され、「寺田先生なら安心だ」と言ってくれる人もいた。後輩が初めて患者とふれあい戸惑っているのを見ていると、昔の自分を思い出して思わず苦笑いしてしまう。
 定期回診はもうだいぶ前に他の人に変わってしまい、それ以来妹尾と会う事も少なくなった。それでも、麻衣子がちょっと疲れていたり辛い気持ちになった時、気がつくと麻衣子は妹尾の病室の前に立っていた。病室に入ると、いつも優しいセピアの世界と妹尾の温かい笑顔が待っていた。
「なんだまいちゃん先生、また疲れた顔してるな。美人が台無しだ」妹尾はいつも麻衣子を迎え入れ、日々の他愛ない話をして麻衣子の心を癒してくれた。
 麻衣子は異動の話を受け、どうしようかと悩んでいた。
決して悪い異動ではない、仕事を認められての事だと理解している。待遇も給与も今より良くなるし、自分にはもったいないくらいだ。
 そう、もったいない——麻衣子は思った。
 自分はまだまだ半人前だし、そんな良い待遇を受けて良いのだろうか。そりゃ昔よりは色々とうまく出来るようにはなったけど、ここで学ぶべき事はまだまだあるのではないか。
 覚えていない事もたくさんあるし、教わっていない事もたくさんある。先輩たちのように立ち居ふるまうなんて、全然できていないように感じる。
 それに、今自分が診ている患者の事も気になる。いつかは自分の手を離れる事になるとは言え——それがどんな形であっても——出来れば彼らの行く末を見届けたい気持ちはある。もちろん、踏み込みすぎた感情を持ってはいけないのは十分わかっている。しかし少なからずの情のようなものを捨て去る事も、麻衣子にはできなかった。それに……。
 嬉しい、でもどうすれば——麻衣子の頭の中でその言葉がぐるぐると廻り続けていた。
 ふと視線を上げた。いつの間にか廊下に出ていたらしい、ある病室の前で止まっていた。この数年、自分が弱っているとつい足が向いてしまうこの場所に。
 控えめにノックをし、扉を開ける。目の前に広がるのは、いつもと変わらない夕焼けの景色。その中で、ベッドに座る老人はこちらを見ながら、いつものように優しく微笑んでいる。

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