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6. 雪の朝珈琲カップを手で包み

前回は、松本清張の『砂の器』に触れたので、同じ松本清張の『点と線』の有名なシーンから書いてみた。

6. 雪の朝珈琲カップを手で包み

 松本清張の『点と線』の冒頭、東京駅のシーン。

「十三番線には、電車がまだ入っていなかった。安田はホームに立って南側の隣のホームを見ていた。これは十四番線と十五番線で、遠距離列車の発着ホームだった。現に今も、十五番線には列車が待っていた。つまり、間の十三番線も十四番線も、邪魔な列車が入っていないので、このホームから十五番線の列車が見とおせたのであった。
 『あれは、九州の博多行きの特急だよ。《あさかぜ》号だ』
安田は、女二人にそう教えた。」

 昭和32年、東京駅では17時57分から18時01分までの4分間、横須賀線が発車する13番線ホームから15番線に止まっている発車前の博多行き特急あさかぜを見通すことができた。13番線ホームにも14番線ホームにも列車が止まっていないわずか4分間を巧みに使ったストーリがここから始まる。東京駅という日本で一番列車の発着が多い駅、しかも夕方の乗降客の多い時間帯、一日の間で4分だけ13番線ホームから15番線ホームを他の列車に邪魔されずに見通すことができたのである。

 松本清張はタバコをよく吸ったが、コーヒーもよく飲んだ。『点と線』では、博多駅から東京駅に戻った警視庁の若い三原刑事に通い慣れた有楽町の喫茶店に向かわせている。
 「九州からの長い汽車の旅で、彼はうまいコーヒーに飢えていた。改札口からまっすぐに有楽町に車をとばして、行きつけの喫茶店に飛び込んだ。(中略)三原は、ほとんど一日おきくらいに、この店のコーヒーを飲みに来ていた。」

 松本清張が笑いながらコーヒーカップを持っている白黒写真。その写真が表紙になっている『作家の珈琲』という本がある。25人の作家やデザイナー、写真家などと珈琲とのつながりが書かれている。著名人の人となりの一端が窺える好著である。松本清張のコーヒーについて、担当編集者であった藤井康榮(当時の松本清張記念館館長)が『スプーン三杯の砂糖を入れてご満悦』というタイトルで、次のように記している。

 「コーヒー好きで日に何倍も飲むが、拘って選り好みするということもない。家族が入れてくれた普通のコーヒーを飲む。地方に行けば不味くて当たりまえ、それでもいい。しかし、都内では随分美味しいコーヒーをご一緒した。」

 藤井康榮もスプーン三杯の砂糖を入れたコーヒーを飲まされたそうだが、とても飲めたものではないが無理して飲んだ、と書いている。松本清張はお酒こそ飲まなかったが、タバコや砂糖三杯入りコーヒーは、さぞかし体には良くなかったのではないかと心配してしまう。しかし、そういうことも含めて多くの傑作を生み出す源になったとすれば、タバコや砂糖三杯入りコーヒーは松本清張にとっては不可欠な嗜好品ということにもなる。

 コーヒーの淹れ方の一つにフレンチプレスというのがある。1930年代にイタリアで生まれ、パリで好まれたのが名前の由来である。紙や布ではなく金属フィルターを使用するのでコーヒーの油分も抽出でき、コーヒー本来の味を感じることができるという淹れ方である。我が家ではフレンチプレスで紅茶を淹れることがあるが、本来はコーヒーを淹れるものである。コーヒー豆の残滓がカップに入らないように少しフレンチプレスに残すのだが、それでも残滓がカップに入る。だから、カップに注がれたコーヒーも少し残すくらいがいい。岡崎琢磨の『フレンチプレスといくつかの嘘』というショート・ストーリがあり、喫茶店の店員が男性客にフレンチプレスの説明をしたあと、

 「そちらのカップの底にも、コーヒー豆の微粉が溜まっていると思います。フレンチプレスで淹れたコーヒーは、最後まで飲み干さずに、ちょっぴり残すべきなのです。ですから、それ以上は飲まれない方がよろしいかと」

 と言って、その男性客の命を救い、ひいてはそのコーヒーに毒を入れた女性客の運命も救うという話である。

 フレンチプレスのコーヒーの淹れ方は、まずフレンチプレスにコーヒー豆を粗挽きしたものを入れ、熱湯を半分くらい注ぐ。30秒ほどしたらさらにフレンチプレスビーカーの上から1〜2センチあたりまでお湯を注ぎたしプランジャーで蓋をする。しばらくしてプランジャーをゆっくり押し下げる。そしてカップに注いで出来上がりである。熱湯を入れてから注ぐまでの時間は4分。昭和32年の東京駅、17時57分から18時01分、特急あさかぜを見通せた時間で美味しいコーヒーが飲める。

●松本清張『点と線』新潮社 2008年・・・昭和32 年に「旅」という雑誌に連載された小説。特急列車、青函連絡船、そして当時は目新しかった飛行機と、乗り物一式が登場する社会派トラベルミステリーである。再版されている本の文末には「本文中の列車、航空機の時間は、昭和32年のダイヤによる。」という(注)が付記されている。
●コロナ・ブックス編集部『作家の珈琲』平凡社 2020年・・・池波正太郎「定宿の山の上ホテルで一杯 神田散歩の途中でもう一杯」、井上ひさし「そのころ、ぼくはコーヒーを、月にすくなくとも二〇〇杯は飲んでいた」 それぞれのタイトルもその人らしさがあり楽しい。
●「このミステリーがすごい!」編集部 『3分で読める! コヒーブレイクに読む喫茶店の物語』宝島社 2021年・・・岡崎琢磨を含む25人の推理作家による喫茶店をめぐる超ショート・ストーリーのアンソロジーで、喫茶店好きにはたまらない。

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