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36. 気早ぶる今宵のおかず竜田揚げ

フランスの印象派の画家たちは屋外へ出て、光と影を取り込んで風景画を描いたが、日本の風景画は文字で書かれた和歌から始まった。

36.気早ぶる今宵のおかず竜田揚げ

 2年ほど前、サントリー美術館で「歌枕 あなたの知らない心の風景」という展覧会があった。歌枕というのは、和歌の題材とされた名所旧跡のことを言う。例えば吉野といえば桜の名所、竜田といえば紅葉の名所というようなもので、日本各地に点在している。先の展覧会でも、一面の桜に覆われた吉野と錦秋の紅葉に染まる竜田が描かれた「吉野龍田図」(根津美術館蔵)が最初に展示されていて、吉野と竜田が歌枕の代表格であることを教えてくれた。吉野の桜を読み込んで歌枕にしたのは西行で「吉野山 梢の花を 見し日より 心は身にも 添わずなりにき」「吉野山 去年のしをりの 道かへて まだ見ぬかたの 花を尋ねむ」などが有名である。竜田の紅葉を読んだ歌では、能因法師の「嵐吹く 三室の山の もみぢ葉は 竜田の川の 錦なりけり」や、在原業平の「ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは」が百人一首に収められている。そして、歌枕が和歌から絵になり旅情を誘い、着物や道具の柄になっていく。展覧会では「歌枕の世界」「歌枕の成立」から「描かれた歌枕」「旅と歌枕」「暮らしに息づく歌枕」と展示が分かれていた。風景を絵だけでなくさまざまな形で楽しみ、その情景を思い起こして歌人の心に思いを致す。何とも奥深い風景の味わい方が日本人と風景のつながりなのである。

 竜田の所在地の特定には論争があったという。柏元功太郎の「紀行文にみる近世における歌枕『龍田』の風景の捉え方に関する研究」によれば、

 「龍田の所在地については、畿内のいくつかの地に伝承されるが、中でも有力な伝承地は奈良県斑鳩町龍田から同町神南周辺と奈良県三郷町立野から大阪府柏原市雁多尾周辺である。」

 とあって、斑鳩町には龍田神宮新宮や奈良県立竜田公園があること、三郷町には龍田神宮本宮や文化庁の日本遺産に認定された龍田古道があることに触れている。もちろん斑鳩にも三郷にもこれが竜田川だという水流や三室山だという山があり、楓の植樹にも余念がない。ちなみにこの二つの地域は隣同士くらいの近さである。学問的には結論は出ているようだが、現地にはそれぞれの思いがある。紀貫之も「年ごとに もみぢ葉流す 竜田川 みなとや秋の とまりならむ」(古今和歌集)と、紅葉の美しさが重なって竜田川の河口に秋がとどまる風景を読み、話を河口にまで広げている。この歌を聞くと、斑鳩や三郷を含めた全体が竜田でもいいのではないかという気がしてくる。

 竜田川は今でも紅葉の名所なのだが、竜田川と聞くと紅葉もさることながら古今亭志ん生の「千早振る」を思い出してしまう。「千早」と「神代」が花魁で、「竜田川」が相撲取り、挙げ句の果てに「とは」は千早の本名ということになる。業平が「千早振る」を聞いたらさぞかし驚いたことだろう。それでもこの落語を聞いて笑うには業平の本歌の意味がわかっていないといけないのだから、それほど業平の和歌も大衆に知られていたということである。原話は江戸時代中期1776年(安永5年)に出版された笑話本らしい。龍田川という四股名を持つ相撲取りが江戸時代には実在したらしいが、さすがに千早太夫や神代太夫という花魁はいなかっただろう。竜田川が贔屓筋に初めて吉原に連れて行ってもらい千早太夫を見た時に、その美しさに目を奪われたのだが、志ん生は千早太夫の美しさを「夜中のはばかり」と言っていた。目の覚めるような美しさということで、なるほどと笑いが溢れる。知ったかぶりの隠居が考えた迷解釈には紅葉の風情もへったくれもないのだが、見事に辻褄が合って大いに笑えるのである。

 最近では竜田揚げが斑鳩の名物になっていて、法隆寺の駅にある観光マップには竜田揚げを食べさせる店が載っている。竜田揚げの色合いが紅葉のようだというわけだが、竜田揚げの名前の由来には他の説もあるので本当のところは定かではない。それでも、斑鳩界隈では歌枕が食べ物にまでつながっている。業平や能因法師だけでなく、紀貫之など竜田川の紅葉を読んだ歌人たちも口元が緩むのではないか。竜田揚げなど見たことがない業平が

 「気早ぶる 今宵のおかず 竜田揚げ からあげる前に くぐる片栗」
 
 とでも言ってくれると面白い。さすがに百人一首には載らないが、クックパッドの片隅には載るかもしれない。斑鳩町が町おこしに竜田揚げを利用し出したのが2013年。1991年には日本マグドナルドが竜田揚げを挟んだハンバーガーを「チキンタツタ」として売り出し、人気を博したのはよく知られている。思い起こせば1960年代には小学校の給食には「鯨の竜田揚げ」などというのもあった。鳥の唐揚げが広く一般にも普及したのは、戦後の食糧難を凌ぐために養鶏場ができブロイラーが多く出回るようになってからである。ブロイラーなどというまさに食べるための鳥という哀れな名前は、いかにもアメリカ流である。名付けという意味では、唐揚げやフライドチキンというようなドライなものよりは竜田揚げの方がはるかに優れていて風情がある。歌枕の精神が生きている。

●「歌枕 あなたの知らない心の風景」 サントリー美術館 2022年6月29日〜8月28日
●「紀行文にみる近世における歌枕『龍田』の風景の捉え方に関する研究」
柏元功太郎 ランドスケープ研究(オンライン論文集)15 公益社団法人日本造園学会

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