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【番外編】5月の旅 ー鱧と玉ねぎ、藍と養蚕ー

 5月になって青葉を見ると、身体が軽やかになり気分が浮き浮きしてくる。旅の季節である。気の合う3人で、淡路と徳島を巡った。いろいろな場所を訪れたのだが、帰ってから振り返って見ると中央構造線沿いに旅をしていたことに気がついた。中でも、沼島と脇町のことが心に残った。

「その島は淡路島の南端に接している属島で、曲玉まがたまのようなかたちをして海中にころがっている。」

 司馬遼太郎が「菜の花の沖」で書く沼島である。そして、主人公である高田屋嘉兵衛に義叔父の喜十郎が沼島のことを語っていく。

「淡路が大男の足であるとすれば、沼島は赤児の小指ほどに小さい。」と喜十郎がいうほどの島で、それでも浦が一ヶ所あり、全島の暮らしはほぼ漁業であった。(中略)
「沼島は、存外社寺が多い。寺では淡路第三十六番札所ふだしょの神宮寺、宮では浦を見おろす丘の上の沼島八幡宮」その八幡宮の下のせまい海岸線に沿って大小の商家や旅籠はたご、あるいは漁家がひしめいている。そのあたりを宮の下という。「あとは、山じゃ」
(中略)
「そんな沼島のような小島でも、漁師はえらいものじゃ」喜十郎は、いう。船団を組み、遠く朝鮮の山々が見える対馬つしま沖に行って延縄はえなわを流しながら漁業をしているのである。
 
 

沼島の地形

そして、「小島の漁師の方が肝っ玉は太いのじゃ」と呟くのだが、沼島の漁師の肝っ玉は鳴門の瀬戸や由良の瀬戸で鍛えた巧みな操船技術という自信から来ている。今でもその歴史が受け継がれている漁業の島である。5月の半ば、私たち3人はその島を目指した。淡路島の土生の港から沼島汽船に乗ると、心地よい揺れを楽しむ間もなく沼島の港に着いた。宿の迎えの車は、小さな港町の海沿いの道から細い路地に入っていった。K屋という看板が見えてきた。K屋の近く、北東方向の小山の上に沼島八幡宮があるから、この辺りも宮の下と呼ばれているのだろう。狭い集落の背後は、「あとは山じゃ」の言葉通りであった。沼島は、古事記の国生み神話に由来したオノコロ島ではないかと言われていることで有名だ。伊弉諾、伊弉冉の二神が日本の大八洲を生み出した時、最初に海に雫を落としてできた島だというのである。神話ゆかりの沼島を目指して訪れる人も多い。土生の旅客ターミナルに掲示されていた「淡路島周辺神話の香り」と題する新聞記事(2018年12月13日付日本経済新聞)には、

「淡路島の南端から連絡船に揺られ10分ほど。沼島に着いた。周囲10キロ、人口500人未満の小島だ。『まず上立神岩を見てください。沼島がオノコロ島だと実感できます。』地元のボランティアガイド、魚谷佳代子さんが助言してくれた。・・・」

 と書かれていた。オノコロ島を足がかりにして日本の大地が出来上がっていくのだが、一番最初にできたのが淡路島だと古事記に記されている。淡路島の次には四国ができた。淡路は、阿波路との意味合いがあって、阿波への道だという説もある。国生みの順番は、やはり何がしかの意味を持つのだろう。淡路が阿波路とするならば、阿波路は阿波への参道ということになる。淡路の次にできた四国のうちでも阿波はなんらかの重要性を秘めていると考える人がいても不思議ではない。確かに、阿波の美馬には伊射奈美神社が、淡路島には伊弉諾神社がある。伊射奈美神社の記念碑によれば「神社の創祀は不詳 神話時代の創建とされる淡路の伊左奈伎神社と同時期と考えられ、伊邪那美尊は、国生みを終え、神陵の地阿波国美馬郡中島、伊射奈美神社を建てられ・・・」とあり、伊弉諾神社の由緒には「伊邪那岐大神は淡路の多賀になも坐すなり日本書紀に伊弉諾尊 是を以て幽宮(かくりのみや)を淡路の洲につくり静かに長くかくりましき・・・」と書かれている。また、淡路島にもオノコロ島と言われる場所がいくつかあって、沼島オノコロ島説含めて、諸説有りという状況になっている。神話談義も興味深いが、沼島といえばやはり鱧である。近海で漁れる鱧のうち、小ぶり中ぶりの鱧は大阪や京都などに運ばれるが、大きな鱧は地元の漁師料理として食べられている。その漁師料理が人気を呼んで、鱧のシーズンになると多くの人が沼島にやってくるのである。今日の宿、K屋は家族で営むほのぼのとした料理旅館で、ご主人が亡くなったあと女将と息子夫婦が切り盛りをしている。春の鯛、初夏から秋の鱧、冬のフグと魚の名物料理が自慢の宿なのである。

「今日は、あなたがた3人だけだから、貸切状態ですよ。」

  と、女将が優しくも元気な声をかけてくれた。夕刻の船に乗ったので、宿に着くとすぐに夕食である。5月といえば、鱧が冬の眠りから覚め活動を始める時期である。私たち3人の旅も、神話の香りを味わいつつ、鱧を味わうことが大きな目的であった(私だけかもしれないが・・・)。湯引き、刺身、天ぷら、鱧の押し寿司そして鱧鍋と続く鱧づくしが並んだ卓上の眺めは壮観だった。特に、鱧鍋の材料が盛られた大皿には、身の部分だけでなく頭や骨、肝、鱧の子などが皿をはみ出すように盛られている。大きな鱧の頭で光っている目が、「しっかり食べてよ!!」と、こちらを睨んでいる。鱧の視線を外して大皿に目を戻すと、一口大に切られた肉厚の身は半透明で皮がうっすらと見えているようであった。丁寧な骨切りがなされている証拠である。「一寸を25本」に切ると言われているから、1mm強の薄さで切れ目がある。皮ギリギリのところまで包丁を入れて骨を切るのだが、そのシャッ、シャッという音までもが食欲をそそる。大きな鱧は、見るからに食べ応え十分である。

「漁師の奥さんなら、骨切りは上手です。鱧はメスの方が大きいので、お出ししているのはメスです。メスの方が身が柔らかくて美味しいですよ。」
「梅雨を過ぎる頃と、秋の産卵後には油が乗って美味しいんですが、5月から秋まで十分に鱧を楽しんでもらえます。」

 

大きな鱧で鱧鍋

刺身や湯引きを堪能したあと、おもむろにコンロに火が付けられ、ダシを取るために頭や骨の部分が先に入れられる。そのあと、本場淡路の新玉ねぎや白菜などの野菜が入る。しばらくして、身を入れて程よいところで鍋からあげる。淡い出汁色に染まって、鱧の縮んだ皮を隠すように花開いた身を、眼前の呑水に入れる。口に運ぶ。大きな鱧だが骨切りのおかげで、柔らかくて口の中で転がって喉を超えていく。また、なんともいえない甘みのある新玉ねぎのシャキシャキ感と風味が出汁に品の良い彩りを添えている。目と口と胃袋に初夏がやって来た。ボリュームたっぷりで、男性3人で食べても食べきれないほどだった。

「鱧鍋の鱧が残るようでしたら、明日の朝、照り焼きにしてお出ししますよ。」
「最後に鱧の子なんですが、ウチでは卵でとじずに、ご飯の上に載せて鱧の子丼にしてお出ししています。」

 女将が、手慣れた手つきで玉ねぎや鱧の出汁の効いたスープに鱧の子を入れて、良い加減のところでご飯に載せてくれた。絶品だった。初めて鱧の子を食べた。鱧の子丼を食べたあと、鱧の頭についた目が再び頭に浮かんだので、「鱧づくし、誠に結構でした。特に鱧のお鍋が美味しかった。ごちそうさまでした。」と心の中で手を合わせて感謝をしたのである。

 次の朝、同行の2人は上立神岩を見にいくと言って出かけたが、私は天候があやしそうだったのと結構な坂道を登るというのに怖気付いて、宿に残って女将と話をしていた。

「大阪の昔の作家が、『鱧の皮』という小説を書いているんですが、鱧の皮と胡瓜の酢の物も美味しいですよね。スーパーでも売ってます。」
 と声をかけると、女将は
「時々、鱧の皮がないか聞かれるんですが、あれは鱧の身をすり身にして蒲鉾にしたあと、残った皮を酢の物にしたりして食べるものなんです。こちらには鱧をすり身加工をしているところがないんです。第一、鱧の皮と身を別々にして、身を骨切りしたら身がバラバラになってしまいますしね。」

 女将は笑いながら、沼島では鱧の皮だけを食べる習慣がないのだと説明してくれた。そして、宿にあった今朝の新聞(5月16日付神戸新聞)を見せて、
「昨日は沼島で供養祭があったんです。市長さんも来て上立神岩まで船で行って、鱧の供養をしたんです。」

 と話してくれた。新聞記事には、

「淡路の観光、行政関係者らが船上からハモを海に放ち、ハモの霊を鎮めるとともに豊漁、商売繁盛を祈願した。・・・供養祭は31回目。これまでは地元の宿泊、飲食施設などでつくる『灘・沼島観光ふるさと会』が続けてきたが、淡路のハモの知名度が上がってきたため島を挙げてPRしようと、今年から淡路島観光協会の主催になった。・・・」

 とあって、鱧を沼島だけでなく淡路島全体でアピールをしていこうという動きになっていることが書かれていた。そして、関係者が船上から鱧を海に放している写真が掲載されていた。

「鱧は夜行性なので、漁師は夜になって港を出ていくんです。若い人にとっては、大変な仕事です。」
「2,000人もいた人口も今では300人に減ってしまいました。ここ数年、港の工事の関係で海水浴場が閉鎖されていて、海水浴客が来ないんです。早くオープンすればいいんですけど。」

 とも女将は言っていた。人口減少や海水浴客の来島がないのは、島にとっては大問題である。2016年には、洲本と沼島の航路が廃止され沼島と淡路島を結ぶのは、私たちが乗った土生・沼島を結ぶ航路だけになっている。ある調査レポートの中で、沼島汽船の関係者は、

「沼島島内で従事できる仕事は、ほぼ漁業に限られ働き場所が少ない。そのため若い人が島外に出てしまい、人口が減少している。人口が減少すれば利用者も減るので、運営の先行きは不透明である。」
「現在は国の補助航路となっている。南あわじ市も補助金を負担しているが、特別交付税を含めて考えれば負担額は年間1千万円程度になる。」
「このスキームが続く間は良いが、国の補助金が下がったり、スキームが変わったりしたときに、耐えられるかが懸念される。」

 と心配している。それでも、この報告書で示された沼島への来訪回数のデータを見ると、「釣り」と「名物料理」を目的に来島するリピーターは多いので、海の恵みが島の大切な資源であることが改めてわかる。

 2人が帰ってきて朝食の膳を囲んだ。昨夜の鱧が照り焼きにされて、沼島らしい一品として加わっていた。旅に出ると、美味しく朝食を食べられるのは不思議である。薄曇りとはいえ、上立神岩の日の出が見えたとの話を聞きながら写真を見せてもらった。30mもの高さがある岩が海上に屹立している。確かに神々しい姿であり神話の香りが漂っている。見たくなかったといえば嘘になるが、小学校のあたりまでは平坦だった小道が、その後結構きつい登り坂になったという話を耳にして、無理をしないで良かったと思うことにした。いつの間にか降り出した雨の音と風の音を聞きながら、朝食を食べビールを飲んだ。旅先でのゆったりとした朝食に鱧の照り焼きとビール、それに3人で交わす興味深い歴史話が加わって至福の朝となったのである。

港まで車で送ってくれた宿の息子さんは、

「鱧は頭を落としても指に噛み付いてこようとするんで、本当に生命力が強い魚なんです。沼島から船で淡路へ、そして陸路で大阪、京都へ運ばれるんですけど、それでも勢いが良くて、元気一杯なんですよ。」

 と、話してくれた。鱧の勢いの良い元気一杯が、沼島の勢いにつながればいい。沼島の鱧、特に淡路の新玉ねぎと一緒に食べる鱧鍋は最高である。秋の鱧と松茸の鍋は有名だが、初夏の鱧と新玉ねぎも負けてはいない。そういえば、女将に見せてもらった新聞には玉ねぎの記事も載っていた。

「淡路島特産のタマネギを使った親子丼が、淡路市内の全小中学校の給食に登場した。子どもたちに地元の特産品を味わってもらおうと、淡路日の出農業協同組合(淡路市志筑)が提供。児童生徒は勢いよく頬張り、顔をほころばせた。・・・」

 児童生徒の頬張りも勢いがよくて、頼もしい限りである。淡路の玉ねぎは、秋植えで翌年の初夏(5月〜6月)に収穫されるので、春植え秋収穫の玉ねぎに比べて甘味が強いといわれている。春植えの場合、夏に発生する害虫から身を守るために玉ねぎはピルビン酸を出すのだが、秋植えの時期には害虫が減ってきてピルビン酸の放出が少なくなる。このピルビン酸が辛味成分の元になるので、春植え秋収穫の玉ねぎは辛味があり、秋植え初夏収穫の淡路の玉ねぎは辛味がなく甘味が強いのである。残念ながら沼島では玉ねぎが作れないので、鱧と玉ねぎの鍋は、淡路島と沼島の合作と言える。沼島の第一次産業はほとんど漁業だけで、米や野菜は淡路本島から運ぶしかない。これは、沼島が石の島だと言うことに由来している。司馬遼太郎は前傾書で、沼島を

「ほとんど岩礁の大いなるものという程度の小さな島」

 とも書いている。沼島は学術的にも珍しい島で、変成岩でできた特異な地質を持つ島なのである。蒲池明弘の『火山と断層から見えた神社のはじまり』によれば、ザクっと1億数千万年前から200万年前の超、超、超の大昔、日本列島は中国大陸と陸続きであったが、イザナギプレートの北進と消滅、その後から西に進んだ太平洋プレートの動きと南から北進したフィリピンプレート、それらのプレートが沈み込んだユーラシアプレートの動きが、日本海と日本列島を作りフォッサマグマと中央構造線を生み出したのだという。諏訪から豊川、伊勢を通り、和歌山から徳島、九州へ続く断層が中央構造線(諏訪から茨城の鹿島へも続いている可能性もあるらしい)なのだが、沼島は和歌山と徳島の間にあって、この中央構造線の南側に接している。イザナギプレートがユーラシアプレートの下に潜り込み、そこにできた三波川変成帯の変成岩の一画が沼島なのである。鱧の島ばかりではなく石の島でもある所以だ。地表面から消えたイザナギプレートの片鱗、いやダイナミックな地殻変動の履歴が見える場所と言ってもいいのかも知れない。この島には結晶片岩が沢山見られるのだが、結晶片岩にはさまざまな種類の石があって、いろいろな色をしているという。土生でみた新聞記事にあった地元ガイドの言う上神立岩も、波が結晶片岩を侵食してできたので、岩礁とも言うべき沼島の風景は大地のうねりと海のうねりが作りだしたものなのである。

 中央構造線は、和歌山から沼島へ、沼島から西へ走って徳島につながり、吉野川の北の崖地に沿って走っている。この断層の南側も三波川変成帯となっていて、この地域でも沼島と同様の結晶片岩が見られる。三波川変成帯の変成岩の一部が地上に露呈して奇岩と言われる景観をつくり出している場所もある。大歩危小歩危、美濃田の淵などが有名で、いずれも結晶片岩が吉野川によって侵食されてできたものだという。その美濃田の淵から東、美馬のあたりで、吉野川に面白い橋がかかっているのを見つけた。潜水橋という。徳島からだと車で西へ1時間ほどの場所にある。潜水橋は増水時に橋の上を水が流れて水没してしまう橋なのだが、減水すれば再度使用可能な橋なのである。氾濫が多い吉野川にはなくてはならない橋である。ただ、水没時に上流からの漂流物が欄干にひっかからないように、欄干が低いというか、ほぼ無いに等しいのである。車で渡ると不思議な感覚になる。直進する橋の上で、もしハンドルを切ると低い欄干を乗り越えて吉野川に落ちてしまうと想像するのは、私だけではないと思う。慣れている地元の人にとっては何ということはないだろうが、初めてわたるドライバーにとっては落ち着かない橋なのではないだろうか。この不思議な感覚の橋をタイムトンネルと見たて、デロリアンに乗ってBack to the pastよろしく吉野川を南から北へ渡っていくと、まさに時代を遡ったかのような風景の町に着く。うだつの町並みで有名な脇町である。吉野川沿いの脇町は江


欄干のない潜水橋

戸時代に藍で栄えた町で、道路に面した商家の二階の壁面から突き出した「うだつ」と呼ばれる漆喰塗りの袖壁が並んでいる町である。瓦屋根だけでなくうだつにも瓦が載せられて、独特な景観を作っている。うだつは、防火の役目を果たしたと言われているが、なかなか重厚な袖壁で、裕福な商家が競うようにして立派なうだつをあげたのである。私たちが訪れたのは朝早い時間だったので、お店も閉まっていて人通りもなかったが絶好の写真スポットになっているのだと思う。建物は江戸時代から明治、大正に建てられているのだが、いずれもしっかりとした作りで街の

うだつの町並み

繁栄ぶりを窺わせる。吉野川からの船入の場所もあって、吉野川を使って物流が行われていたことも分かる。一際大きな藍商家は吉田家である。案内板には、

「・・・吉田家は、藍商として脇町の中でももっと大きな敷地を有し、背後には舟着場跡が続いている。そして現存する主屋および土蔵、その他の蔵あととその配置が当時の脇町の藍商の状況を知るための重要な資料となっている。・・・」 

 と記されている。入り口には藍が3株植えられた木製の鉢があり、藍の葉の実物を見ることができる。春先に植えられた藍の種はすぐに発芽し、5月に苗植えをすると、すぐに葉の生育期を迎えて夏場に葉を収穫することができる。台風シーズンの前に収穫ができるので、吉野川の氾濫の影響を受けない産業だったのである。蜂須賀氏によって奨励された藍づくりは江戸時代まで続き、吉野川沿いの脇町は藍の集散地として栄えた。付近一帯で栽培された藍の葉は、脇町に集められ発酵・熟成を経て藍染の原料となるすくもとなって紺屋に卸される。この辺りの藍は「阿波藍」と言われて、その品質の高さが評価されていた。江戸時代には着物や作業着、のれんや生活雑貨など身の回りのものに使用されたのである。深みと暖かさのある藍色は、海外から「ジャパンブルー」と賞賛された。ちなみに、サッカー日本代表のユニフォームのサムライブルーは、より深く濃い藍色を意味する「褐色(かちいろ)」に由来しているという。褐色が勝色に通ずるということなのだろう。

藍の鉢植え

平岩弓枝は、徳島で藍染の壺を覗いたときの印象を、

「・・・私はかって四国の徳島で藍染めの壺をのぞいた時の強烈な印象を忘れかねている。藍の原料の藍草は土まで染めるほど強いのに、それから採れた藍玉で染められる藍色は何度も何度も色を重ね染めして、漸く本当の藍らしい藍に染まってくれる。そして、藍染は、風雪に堪え、何度も洗われて、やがて本物の藍に成長して行く。・・・」

 と書いている。藍玉は、蒅を固形化したものだが、藍染が本物の藍に成長していく過程が人生にも共通すると考えたのかもしれない。この想いを短編にしたのが「藍の季節」である。この短編小説で私の記憶に残っているのは、

「律心院の境内は、初夏であった。花の散ったこずえを、さわやかな風が吹いている。下町では、もうみられないような緑が境内を埋めていた。」

 の一文である。主人公の女性が、律心院に身を寄せている妹を訪ねたことがきっかけになって、人間関係や男女関係で悩んでいた姉妹がそれぞれに人生の落ち着きと自分らしさを取り戻していく。これが「風雪に堪え、何度も洗われて、やがて本物の藍に成長して行く」という言葉につながるのだろう。ここで言う初夏は5月に違いない。平岩弓枝は、姉妹がこれから迎える人生の夏や秋の手前の時期として初夏を選んだのである。

 藍の素朴な美しさに想いを至し、「藍の季節」の記憶を辿り感傷に浸って「わきまち」という観光パンフレットを見ていると、往時の商家の絵が並んでいるページに藍商や一般的な商家に混じって繭問屋や絹糸商といった商家が描かれていることに気がついた。美馬市教育委員会、文化庁、徳島県が現地に設置した看板には、

「・・・江戸時代には舟運を利用して、吉野川中流域における阿波特産の藍の集散地として発展。明治以降は繭(まゆ)の仲買および生糸の中心地として栄え、藍商、呉服商、その他各種の商家が軒を連ねる街となりました。・・・」

 と書かれている。また、2014年10月から開催された徳島県立文書館の「徳島の養蚕と製糸」のパンフレットには、その経緯が、

「徳島県では、明治30年代後半頃から安価なインド藍や化学染料の大量輸入によって藍作が急速に衰退し、それに代わり桑作(養蚕)が吉野川中・下流域を中心に広い範囲で展開します。この養蚕の発展を背景に、明治40年代になると製糸工場の設立ブームを迎えます。」

 と説明され、県内資本の筒井製糸所、東生社製糸所を始め、大手製糸会社である郡是製糸株式会社(現グンゼ)、片倉製糸株式会社(現片倉工業)などの大規模製糸工場が林立したことも書かれている。郡是製糸は言うまでもなく日本有数の繊維メーカー、片倉製糸は明治に信州諏訪発祥の製糸会社で、のちに富岡製糸場を経営した会社である。藍作から養蚕への産業転換が進むと、吉野川沿いの町はこぞって桑を作り始める。先のパンフレットには、

「藍作地帯の中心であった名西・板野・阿波・麻植・美馬各郡での伸びは著しく、藍から桑への転作がうかがわれる。」

 となっていて、明治の終わりから大正にかけて脇町にも繭や絹を扱う商家が出てきたのである。脇町も風雪に堪えながら、時代の波に洗われたのである。養蚕・製糸は一時期、日本全体で見ても主要産業だった。多くの農家が蚕を飼った。そして餌となる桑を栽培した。七十二候のうち、5月の半ば過ぎの時期を表す言葉は「蚕起食桑」である。「かいこおきてくわをはむ」と読む。この頃になると、蚕が繭から生まれて盛んに桑の葉を食べるのである。しかも大量に、昼も夜も食べるのである。いい絹糸を作るために、農家は桑の葉を大量に蚕に与えなければならない。大忙しの時期が始まる。養蚕は気候を表す言葉にもなったのである。

 自然を相手にする人々にとって5月は大切な時期である。蚕が桑を盛んに食べるのが5月なら、藍の葉が茂っていくのも5月である。鱧が眠りから覚めて活動を始めるのも5月。甘い新玉ねぎも5月である。5月は、自然や人が溌剌とした空気に触れて動き、表に出てくる時期である。

「けさから五月、そう思うと、なんだか少し浮き浮きして来た。やっぱりうれしい。もう夏も近いと思う。庭に出ると苺の花が目にとまる。」

 太宰治の「女生徒」の一文である。庭の木々の緑の中、緑濃い葉に隠れるように咲いている苺の白い花。その花を見つけた清純な女性の姿が目に浮かぶ。本の裏表紙には「ある女の子の、多感で透明な心情を綴った」と書いてある。多感なつもりではあるが年相応の透明な心情しか持ち合わせていない私たち3人も、5月になって浮き浮きして、5月を食べ、5月を見て、5月を感じる旅をした。5月は人生でいえば青春である。朱夏を過ぎ白秋真っ只中の3人が、青春の季節である5月を満喫したのである。それでも、帰宅した次の日には「足が痛い」「背中が痛い」「風邪引いた」とただの白秋の人に戻ってしまった。前掲の「女生徒」には「幸福は一夜遅れて来る」という言葉が出てくるのだが、私たち3人には「痛みと疲れが一夜遅れてやってきた」のだった。


⚫︎「菜の花の沖」 司馬遼太郎 文藝春秋 1997年(初版は1987年)
⚫︎「沼島航路の再編後におけるフォローアップに関する調査業務報告書」 国土交通省神戸運輸監理部 2017年
⚫︎「火山と断層から見えた神社のはじまり」 蒲池明弘 双葉社 2024年
⚫︎「藍の季節」 平岩弓枝 文藝春秋 1996年(初版は1978年)・・・平岩弓枝の短編集に掲載。5篇の短編小説の一つ。裏表紙の言葉を借りれば、「さまざまなかたちであらわれる女の愛を通して、その深奥に潜む本質を鋭く衝く」となっている。藍染めの壺を覗いた時の印象は、この短編集のあとがきに書かれている。
⚫︎「わきまち」 (一社)美馬観光ビューロー作成の観光パンフレット 2020年4月 
⚫︎「徳島の養蚕と製糸」 徳島県立文書館の第50回企画展(2014年10月28日〜2015年1月25日)パンフレット
⚫︎「女生徒」 太宰治 KADOKAWA 2023年(初版は1954年)・・・太宰治の短編集に掲載。この裏表紙には「太宰がもっとも得意とする少女の告白体小説の手法で書かれた秀作計十四篇を収録。」と書かれている。「女性徒」はその一篇。白秋の男が読んでも面白い。

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