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聖スウィザン(スウィジン)についての覚書き

「アルフレッド大王聖地巡礼記 5日目(2)で触れた聖スウィザン (または聖スウィジン/スウィズン, St Swithun/ Swithin)」について調べていたら長くなったので、忘れるのも勿体ないので、一旦ここに保存しておきます。

  • 上記記事から分離したので、一部重複しています。

  • 不完全で偏っており、過誤に満ち、読みづらいと思いますが、ご容赦ください。
    (雑すぎるので、また後で書き足すかも知れません)

  • 聖人になった後に創作された奇蹟の数々については、ほぼ触れてません
    他の文献や研究書(下記)を参照ください。


◆まず読むべき研究書「The Cult of St Swithun」

聖スウィザン信仰についてのきちんとした研究書については、マイケル・ラピッジ (Michael Lapidge) 先生の「The Cult of St Swithun」(以下 "Cult")が大変詳しいので、そちらを参照ください。
2023年中に Archaeopress から復刊されるようです。旧版は国内の大学図書館も2館ほど所蔵
※Google Booksでも一部プレビュー可能ですが…むにゃむにゃ


◆基本情報:聖スウィザンとは:

※「▶後述」とあるものについては詳細を後述します。

  • 9世紀ウィンチェスター司教
    797~800年頃生誕。
    表記は St Swithun/ Swithin (現代英語), Swīþhūn, Suiðhun (古英語), Swithunus/ Suuithunus (ラテン語), Swythun, Swithhun など。
    日本語表記はスウィザン、スウィジン、スウィズンなどを観測。

  • 852年10月30日にウィンチェスター司教に就任。アルフレッド王の父、エセルウルフ王が任命。

  • 伝記によっては、エセルウルフ王に仕える前から「エグバート王(Ecgberht, アルフレッド王の祖父)の相談役、かつ息子エセルウルフ (Æthelwulf) の教育係だった」とされている。
    (ただし現存する証拠はなく、後世の創作の可能性が高い)

  • 上記に限らず、いくつかの教会関連や土地の供与などの文書、および854年以降のウェセックスのチャーター(王の勅令状/公式文書)の立会人として時々名前が出てくる以外は、生存中の実際の業績などについて書かれた文書/写本は現存しない/発見されていない。
    また、チャーターの署名も、後年に捏造されたと思われるものが混じっている。
    現在残っているエピソードのほとんど、特に「奇蹟」関連は、ほぼ後年の創作
    ▶後述

  • 幼少期のアルフレッド王の853年のローマ巡礼に同行した、という後年の記述もある。こちらも真偽不明、恐らく後付け。
    ▶後述

  • ラテン語能力が高かったっぽい。
    (『司教就任時の宣誓書のラテン語が、同時代の他のアングロサクソン人の聖職者より上手い』 by マイケル・ラピッジ [The Cult of St Swithun, p.6])

  • ウィンチェスターの街の東・門の橋を石橋に建て替えた
    これは死後(863~971年頃?)に書かれた詩(=恐らく橋の碑文を写したと思われるもの)に記述があり、信憑性は高め。
    現在のウィンチェスターの「聖スウィザンの橋/ St Swithun's Bridge」。
    ▶後述

  • 橋の他にも、教会の建設や修繕に熱心だったとされている。
    これは、スウィザンの時代=エグバート王~エセルウルフ王の治世で、彼等がそれらに熱心であり、またこの時代(9世紀)にウィンチェスターの街が拡大されたことなどが背景にあるかも知れない。 (e.g. Barbara York, ODNB, 2004)

  • 後年、「スウィザンの日(7月15日)に聖スウィザン橋に雨が降ると、その後40日間雨が続く」などの伝承が生まれた。
    ▶後述

  • 863年(861/862年記載もあり)7月2日死去
    死に際して「大聖堂の前の屋外に埋葬して欲しい」と遺言した、とされている。
    遺言そのものは謙虚さアピールの創作くさいが、教会の入り口の外(西側)に墓があったのは確かで、1960年代の発掘調査で実際に当時の教会(オールド・ミンスター)の前に墓が見つかった。
    ▶後述

  • 約100年後の971年前後、エドガー王/エセルウォルド司教 (Æthelwold) の修道院改革期に、ウィンチェスター大聖堂の守護聖人として祀り上げられ、イングランド南部を中心に信仰が広まった。
    これ以降、「オールド・ミンスター」および後継の現ウィンチェスター大聖堂は、「聖ペテロ&パウロ&スウィザンの教会」などと呼ばれる。
    ▶後述

  • 初期の聖人伝としては 10~11世紀の ランフレッド (Lantfred of Fleury) 版、ウルフスタン (Wulftan Cantor)版、アルフリッチ (Ælfric of Eynsham) 版 あたり。
    (なお Goscelin of Saint-Bertin が書いた聖人伝が最初期、と思われていた時代があったらしいが、近年では否定されている)

  • スウィザンブームはアイルランド、フランス、北欧にも広がり、ノルウェーのスタヴァンゲル (Stavanger) などにも教会がある。
    ▶後述

  • 遺骸はカンタベリー、ピータバラなど、国内外のあちこちに分祀/贈与/持ち出しされたが、ウィンチェスターの本体を含め、各国の宗教改革の際にほぼ失われた
    唯一現存が確認されているのは、フランスのノルマンディーは Évreux大聖堂(Notre-Dame d'Évreux)にある頭蓋骨(ただし法医学的調査はされていないっぽい)。
    ▶後述

♰シンボル:雨、リンゴ
♰アトリビュート(持物):司教の姿、割れた卵、橋
♰聖人祝日:7月15日

Icon of St Swithun, Winchester Cathedral. Photo by Alf Pilgrim, 2018
ウィンチェスター大聖堂の聖スウィザンの聖廟の前に飾られているイコン。
1992年制作、Sergei Feyderov画。
キリストを中心に9体の聖人・天使が描かれている内の1枚)
(2018年撮影)


◆勅令状(チャーター)から見る、実際のスウィザン


現存する文書では、生前のスウィザンの直接的な痕跡は、チャーター(王の勅令状)内の署名、就任時の宣誓書(1件)、王からの土地供与書(1件)あたりのみ。
ラピッジの「The Cult of St Swithun」(Lapidge, 2003) によると、9件のチャーターに署名があり、854年が最も古いとしている。

過去の研究書では、例えば、
アングロサクソン時代のチャーターを網羅した「Codex diplomaticus aevi Saxonici」(J.M. Kemble, 1839~) では、833年、838年、860~862年のチャーターにスウィザンの署名があり、特に833年のマーシアのウィグラフのチャーターには
「♰私、エグバート王の司祭であるスウィザンが立ち会った (♰Ego Suuithunus presbyter regis Ecgberti praesens fui)」
と署名されている例が掲載されている。
引用元: Codex Diplomaticus eavi Saxonici toms 1 (vol. 1), No. 233 (CCXXXIII) UUiglaf, May 26th, 833 (署名は p.308 - Internet Archive )
※エグバート:アルフレッド王の祖父、王位800/802~839

ただし、これ(833年)より後の838年のチャーターの署名に「Swithunus diaconus(助祭スウィザン)」とあり、地位が下がっていることから、833年の署名は信憑性に欠ける、または後年に書き加えられたものと見る研究者が多いようだ。

スウィザンが「エグバート王の顧問であり、息子エセルウルフのメンターだった」という記述が、後年のスウィザンの伝記に見られるが、
それを裏付けている(とおぼしき)上記のようなチャーターは捏造の可能性が高いため、後付けの伝説の可能性が高い、ということに。

【参考】チャーターへのスウィザンの署名がどれに/いくつあるかについては、Kemble Website内にある「Atlas of attestations」の一覧表(「 Tables」)も参照のこと。
→「West Saxon charters in the ninth century」項の「XIX Attestations of bishops in West Saxon charters of the ninth century, Pages 1-3 (of 3) PDF file)」内参照。

◆参照元(※一例であり、代表的なものではない):

参考:スウィザンの署名「+Ego sƿiðhun」が見える写本
Cotton Ch VIII 29 (f. 1r)
(※「s」は写本上は「r」のような文字)


◆「卵の奇蹟」と列聖の経緯

◆列聖の経緯

スウィザンは普通に司教を務めて普通に亡くなったっぽいが、約100年後のエドガー王治世下に、修道院改革ガチ勢エセルウォルド司教(Æthelwold, 任期963~984年)とカンタベリー司教ダンスタン(Holy St Dunstan! のダンスタン)によって聖人に仕立て上げられた。

生前に起きた(とされる)唯一の奇蹟は、「割れた卵を元に戻した」逸話:
→ある貧しい女性(老婆)が、「スウィザン橋」の上で(スウィザン司教と予期せず出会って驚き)カゴに入れていた卵を落として割ってしまったが、スウィザンが元通りに戻した、というもの。
※場所やきっかけについては、街角であったり、建て替え中の「スウィザン橋」(後述)の建材につまづいて割ってしまった等、様々なバリエーションあり。

<死後>
死に際したスウィザンは「教区の人々天からの雨の両方に触れられるように」屋外に埋葬して欲しい、との遺言を残し、当時のオールド・ミンスターの入り口の西側の屋外に埋葬された。
遺言そのものは後年の創作かも知れないが、この墓の位置は実際に発掘調査でも特定されている。
参考文献:The Search for Winchester’s Anglo-Saxon Minsters(PDF版あり)

<約100年後>
修道院キラキラ☆改革ガチ勢
エセルウォルド司教(Æthelwold, 任期963~984年)とカンタベリー司教ダンスタン (Dunstan) によって聖人に仕立て上げることになったため、お墓の周辺で様々な奇蹟イベントが発生

971年7月15日、エセルウォルドはスウィザンの遺骸を(本人の希望に従って屋外にあった)墓から掘り起こして、オールド・ミンスターの屋内の祭壇のあたりに改葬させる。
スウィザンの命日は7月2日にも関わらず聖人祝日が7月15日なのは、このせい。エセルウォルドの自己顕示欲がすごい。

この時、「スウィザンの怒りに触れたのか」雷が鳴って雨が40日間続いたため、後述の「聖スウィザンの橋」の言い伝えができたらしい。
それでも聖人祝日を7月15日にするエセルウォルド。ブレない。

974年には、元の(屋外)の墓の場所に聖廟小屋を立て、エドガー王プロデュースのギラギラした聖遺物箱に遺骸の一部を納めた。
(流石に墓から掘り起こした事を少し気にしていたのかも知れない。)

St Swithun in The Benedictional of St Æthelwold
「エセルウォルドの祝祷書」(963-984年頃)に描かれたスウィザン先輩。
The Benedictional of St Æthelwold
大英図書館 Add MS 49598 f.97v
Copyright © The British Library Board

エセルウォルドによるスウィザン先輩を聖人にプロデュース☆キャンペーンはなかなかエグく、スウィザンの墓の周辺で 1日に何回も(深夜にも)奇蹟イベントが発生し、その度に修道僧達は「何をしていようと問答無用で集合しなければならない」という縛り付き。
夜中にも何度も叩き起こされるので、ゲンナリした修道僧たちがサボったところ、夢の中でスウィザンに「それはアカンで」と言われ、やっぱり全員集合することになった…というエピソードもあったらしい。


◆聖スウィザン橋と雨

ウィンチェスターのイッチェン川 (River Itchen)にかかる「聖スウィザン橋 St Swithun's Bridge」は、859年にスウィザンが初めて石の橋にしたとされているため、この名がついた。

イッチェン川にかかる聖スウィザン橋。
現在の橋はヴィクトリア時代のもの。(2011年撮影)

根拠となるのは、スウィザンの死後(863~971年頃)に書かれたラテン語詩で、恐らく橋の碑文を写したと推察されているもの。元々の文書は現存しないが、10世紀ウィンチェスターの修道僧ウルフスタン (Wulfstan of Cantor, 990年頃没) が著した文書に転載されている。
>> 参考文献: Narratio Metrica de Sancti Swithuno by Wulfstan, British Library Royal MS 15 C VII, f. 124v
>> 参考記事Hampshire Chronicle, 3rd Oct, 2013

▼上記より、碑文の英文訳(新訳)およびラテン語原文の抜粋。
後半に竣工年月「859年、7番目の月」(大意)と記載があるっぽい。なお暦が現在と違うので「7番目の月」はいつなのか未確認:

Traveller, whoever you may be, as your gaze rests on this city-gate, take a moment to say a prayer, speak it with a whole and humble heart to Him who makes the heavens ring. Do this for Christ’s servant Swithun, once bishop here: he spared no effort, no expense, to have this elegant structure built, this splendid bridge, to adore our Christ and adorn our town of Winchester.
The sun had circled eight hundred times and fifty nine on its ordained yearly journey since Christ’s pity had taken fleshly form: it was in the seventh tax cycle.

Hampshire Chronicleより、 現代英語訳(新訳)

Hanc portam presens cernis quicumque viator devotas effunde preces ad celsitonantem(*) pro Christi famulo SWIDUN, antistite quondam.

Per cuius summam cum sollicitudine curam est huius pontis constructa operatio pulchra ad Christi laudem, Wentane urbisque decorum, sol octingentos cum rite revolveret annos, quinquaginta novem replicaret et insuper annos incarnata fuit postquam miseratio Christi; tunc erat et vertens indictio septima cursum.

Hampshire Chronicleより、ラテン語原文

(*)注:「celsitonantem」はこの石碑にしか見られない語 (CLASP準拠) 。本来は現代英語の「celestial」関連?

この橋に関わる逸話(石造りにした、および卵の奇蹟を起こした)と、971年に墓を移転した際に大雨が降りつづいた事から、
スウィザンの日に(スウィザン橋に)雨が降ると、その後40日間、雨が降り続く」という民間伝承が生まれたらしい。

St. Swithun's day if thou dost rain
For forty days it will remain
St. Swithun's day if thou be fair
For forty days 'twill rain nae mare

ジェーン・オースティンは最晩年、ウィンチェスターで最期の日々を過ごしてウィンチェスター大聖堂に埋葬されたが、亡くなる3日前(7月15日のスウィザンの日)に聖スウィザンと雨を扱った韻文を口述している。


◆「アルフレッド王子のローマ巡礼の添乗員」説について:

アルフレッド幼少期に2回、ローマ巡礼しており、2回目の855年はエセルウルフ父王が同行しました(前回参照)が、853年の1回目は単独です。

と言っても勿論 1人で行くわけではなく、家臣や僧侶その他の大人達で構成されたローマ巡礼パックツアー団に、王家からはアルフレッドが参加した感じです。

この際に「スウィザンが同行した」という話が、聖スウィザン-アポン-キングスゲート教会 (St Swithun-upon-Kingsgate, Winchester) のパンフレットにも書かれているのですが、当時の記録が現存していない(現時点で見つかっていない)ため、後付けの可能性も高いです。

元ネタとしては15世紀のウィンチェスター/聖スウィザン修道院の修道僧、トマス・ラドボーン (Thomas Rudborne) が記した「Historia Maior ecclesiae Wintoniensis」(1454年刊)(『Anglia Sacra』Henry Wharton, p.179-286に採集) などがあるようで、

この中に、エセルウルフ父王がアルフレッドをローマ法王謁見のために派遣した記述のあたりに、スウィザンが言及されています。
▶参考:p.201下部~、以下抜粋。(誤記ありましたらすみません。)

Hic Athulphus misit Alfredum filium suum minorem Roman; ut primus omnium Regum Angliae inungeretur in Regem a sancissimo Papa Leone, legationis officio in hac parte sanctissimo Swythuno Wyntoniensi Pontifice sungente anno regni nonodecimo;

Anglia sacra by Henry Wharton

ラテン語が読めないので取り敢えずGoogle翻訳にかけてみましたが、「スウィザンの在位期間中に、エセルウルフ王が息子アルフレッドをローマに送り、(アルフレッドは)教皇レオ4世に聖別された初めてのイングランド王となった。在位19年目のことだった」というような感じ。
この翻訳が合っている保証はゼロですし、「在位19年目」が誰にも当てはまらない(エセルウルフ王の在位期間としても5年ズレている)ので、よくわかりません。

一応当時のウィンチェスター司教なので、同行した可能性はありますが、同様の記述のある 9世紀当時の文書などは現存しておらず、上記のラドボーンの資料も、聖スウィザン修道院の修道僧であるラドボーンが聖スウィザン修道院で書いた=聖人としてあれこれ盛って書いているので、現時点ではあくまで憶測か後付けという扱いになるようです。
(参考資料: 「Historical writing in England, ii : c.1307 to the early sixteenth century」Gransden, Antonia


▶スウィザンの墓の遍歴

スウィザンの墓は、現在は、ウィンチェスター大聖堂の祭壇 (high altar)とグレート・スクリーンの裏(東)側の feretory(聖遺物安置所)跡、およびその後に造られた聖廟(shrine)の跡で示されていますが、
元々は、サクソン時代の教会、通称「オールド・ミンスター (Old Minster)」にありました。

最初の埋葬場所は、当時のオールド・ミンスター(※現在のウィンチェスター大聖堂の北側に位置)の西側入口の前(屋外)
これは、スウィザンが臨終の床で「教会に来る人達に踏みつけられたい//// 恵みの雨に濡れたい////」という性癖…… もとい謙虚な遺言を残したため、とされている。(この遺言も後年の創作っぽい)

が、971年に、当時のウィンチェスター司教エセルウォルドが、増築した教会の屋内に新たに作った聖廟に改葬。

没後1100年の1962年に設置されたメモリアル聖廟オブジェ
後ろ側のイコン(現代の作品)が並んでいる仕切りの後ろ側に、遺骸が安置されていた。
その後、このオブジェの場所に大理石の聖廟が作られたが、1538年に破壊された
(と説明板に書いてある)。(2011年撮影)


◆遺骨の行方

聖遺物 (relics) は基本的に分散される運命にあるので、聖スウィザンの遺骸もあちこちに。

12世紀には少なくとも 14か所の教会が「聖スウィザンの聖遺物あり〼」と喧伝していたらしい ("Cult," Lapidge, p.40-42)。
修道院解散/宗教改革時にほぼ失われてしまったものの、スウィザンの頭蓋骨(とされているもの)がフランスに残っている。


▶頭蓋骨:カンタベリー→エヴルー

ウィンチェスター司教だったエルフヒア (Ælfheah of Canterbury)が1066年カンタベリー大司教に抜擢された際、カンタベリーに頭蓋骨を持って行ってしまった。
以降、ウィンチェスター大聖堂のスウィザンは首無し

その後、経緯不明(諸説あり)だが何やかやあって、フランスのノルマンディのエヴルー大聖堂 (Cathédrale Notre-Dame d'Évreux) に渡った。

その後、イギリス側では所在を確認できずにいたらしいが、1997~8年にウィンチェスターの信徒団 (cathedral congregation) の1人が、北フランスの大聖堂を巡った際、エヴルーにスウィザンの聖遺物があるらしい事を知り、ウィンチェスター大聖堂の関係者に報告。改めて人を派遣して存在を確認。2000年には John Crook氏(歴史家、写真家。執筆多数、ウィンチェスター大聖堂についての本など)がエヴルーを訪問し、写真に収める。
("Cult", Lapidge, 2003, p.61~)
こちらの記事 (Church Times, 2009/3/25) に経緯とカラー写真あり。

▶腕(1):ピータバラ修道院

ピータバラ修道院(現ピータバラ大聖堂、前ミーズハムステッド修道院)にあったが消えたらしい。
→ピータバラの修道僧 Hugh Candidus (or/aka Hugo White, 1095~1060) がラテン語で書いたピータバラ修道院の歴史書(「Historiæ Anglicanæ Scriptores Variæ」Joseph Sparke, 1723年発行内に収録)に書いてあるっぽい。
source: Rev. Alban Butler (1711–73). Volume VII: July. The Lives of the Saints. 1866.

<余談/自分用メモ>聖オズワルドの腕と混同注意:
1070年にスヴェン王配下の北方(デイン)人がピータバラ修道院を襲って財宝や修道僧達をEly修道院に持ち去った際、デイン人の歓心を買った Prior Athelwold がこっそり宝物庫に忍び込んで「聖オズワルド王の右腕」を持ち出し、「stramine lectuli sui sub capite suo (藁ベッドの中、頭の下)」に隠して守った、そしてRamsey修道院にひそかに送って守らせたが、平和になった後も Ramseyの修道僧達は返すのを渋った。しかし「これ以上持ってたらあかんで」というお告げが現れたのでピータバラに返した、という逸話をHughが書いている。("The Peterborough Chronicle, 1070-1154" Cecily Clark, Oxford University Press, 1958, p.63)
("Ancient history, English and French, exemplified in a regular dissection of the Saxon chronicle," Henry Scale English, p. 142"


▶腕(2):スタヴァンゲル

ノルウェーのスタヴァンゲル大聖堂の目録に1517年まで記載されていたが、ノルウェーの宗教改革のドサクサで失われたらしい。

▶その他(本体の残りおよび衣類、塵)

12世紀頃の記録によると、色々な部位がイギリスやフランスの各地の教会に納められて(いると主張されて)おり、単に「聖スウィザンの体(Corpus sancti Swithuni)」としか書いていない、または「聖スウィザン(のもの)([De] S. Swithuno)」としか書いていないものや、「スウィザンが横たえられていた衣」や「塵 (dust/ pulvere)」なども含めるとかなりの数。

12世紀でコレ(上記)なので、その後さらにあちこちに分骨されたはずで、「1451年にウィンチェスター大聖堂の聖遺物箱 (Old Reliquary) が溶かされた (melted down) 際には、いかほどの骨が残っていたか、推し測れるというもの」(Cult, Lapidge, p42)。

▶ウィンチェスター

ウィンチェスター大聖堂の聖廟および/またはクリプト(地下の聖遺物礼拝堂)に、残りの部分(残りがあれば…)が納められていたらしいが、多分宗教改革とかのドサクサで消えた。
クリプトには他にも、サクソン時代の王族や司教の遺骨が納められていたが、よく水没するので地上に出され、例の遺骨箱 (mortuary chests) に入れられたっぽい(source要再確認)。
なお16世紀頃?のスウィザンの像がクリプト内の奥の方にあるらしい。

<余談>映画やドラマに出てくるスウィザン

◆「One Day」

アン・ハサウェイ主演。聖スウィザンの日に絡めたラブストーリー。
(未鑑賞)

◆「ダークナイト・ライジング」

クリストファー・ノーラン監督(イギリス系アメリカ人)のバットマン映画の3作目、原題「Dark Knight Rises」。

登場人物のひとり、ジョン・ブレイク巡査が育った孤児院が「スウィジン孤児院(St. Swithin's Home For Boys)」で、これは聖スウィザンの「割れた卵を元に戻す奇蹟」を孤児院に見立てたから、らしい。

バットマンの中の人(ブルース・ウェイン)の財団が援助をしていた孤児院…で育った警官
孤児院の中。入り口扉(写真奥)の上に「ST SWITHINS」と書いてある。
いずれも映画よりスクショ (C)Warner Bros.

◆「なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか」

アガサ・クリスティの小説「なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか?(Why Didn't They Ask Evans?)」(1934) を、ドラマ3回シリーズに映像化したもの。 2022年(BBC/ITV)。

第2話に、主人公の1人、フランキー嬢のセリフに「I went to St Swithun's」、つまり母校が「セント・スウィザン」を示すものがあった。
原作には無い設定のようだが、ドラマの舞台となる地域性などを示しているっぽい。

セント・スウィザンズ・スクール (St Swithun's School) は、ウィンチェスターにある女子向けボーディング・スクールで、1884年創立。

「そんな(他人の邸宅の詳しい)情報、どこで?」
「セント・スウィザンに通ってたから ("I went to St Swithun's")」
「母校でハンプシャーの邸宅について習ったって事?」
「違う、学校がハンプシャーにあったの。馬鹿ね。("No, it's in Hampshire, you dolt.")」



【追記】ピルグリムズ・スクール

セント・スウィザンズ・スクール(全寮制女子校、上記)と言えば、
ウィンチェスターには「The Pilgrims School」という年少男子向けボーディング/プレップ・スクールがあり、こちらは元々はウィンチェスター大聖堂の少年聖歌隊を教育するための学校がルーツ。

現在の所在地/学校組織としては1931年創立になっているが、このような聖歌隊向けの学校は、7世紀(AD 676年頃)のイネ大王の頃からあったとの事。

「ピルグリムズ・スクール」は、聖スウィザンの巡礼(ピルグリム)に因んでおり、
校舎の一部となっている「The Pilgrims' Hall」は14世紀(1310年頃)に建てられたもので、スウィザンの巡礼者が聖廟にお参りする前の休憩所だったとの事。一般公開もされていらしい。

ピルグリムズ・スクールの一部(ホールとは別)。音楽室らしい。
メイン校舎は17世紀のカリスマ建築家、クリストファー・レンが改装したもの。
大聖堂の南側、プライアーズ・ゲートの近くにあった。

【以上、2024年6月追記】

♰参考文献、リンク

参考にしたり文中で言及した文献、リンクなどの一覧。

  • ランフレッドの「Vita S. Swithuni」(聖スウィザンの生涯)および「Translatio et miracula S. Swithuni」(聖スウィザンの改葬および奇蹟)
    スウィザンについての現存する1番古い伝記(多分)。
    Lantfred of Fleury著、974~84年頃成立、ラテン語。
    ▶写本:大英図書館蔵 Royal MS 15 C VII
    ▶書籍:?

  • ウルフスタンの聖スウィザン詩「Narratio Metrica de Sancti Swithuno」
    Wulfstan of Winchester (Wulfstan Cantor)著、10世紀最後半(975~990年?※上記Lanfred本より20年後くらい)頃成立。ヘクサメトロス詩形で書かれた、聖スウィザン伝。
    ノルマン征服以前に書かれて現存している詩の中で最も長く、完成度が高い。
    大英図書館蔵 Royal MS 15 C VII
    https://www.bl.uk/collection-items/narratio-metrica-de-sancti-swithuno

  • Michael Lapidge著「The Cult of St Swithun
    本note冒頭「まず読むべき研究書」項 参照。

  • 「エレクトロニック・ソーヤー」:
    アングロ・サクソン時代のチャーターをまとめた書籍 Peter Sawyer著「Anglo-Saxon Charters: an Annotated List and Bibliography」のオンライン版データベースサイト。
    https://esawyer.lib.cam.ac.uk/

中途半端ですが、一旦このへんで終わり。

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