ALFA+アルファ〜リアル・クロスオーヴァー進化論

⑧ 松岡直也

Text:金澤寿和

 ラテン・ピアノの第一人者としてジャズ・フュージョン・シーン界隈を風靡した松岡直也が、前立腺癌のために旅立って早10年。それでも未だに、生前の松岡サウンドに貢献したミュージシャンたち中心に、メモリアル・ライヴが開催されたり、過去に残したアルバムや音源がCDや配信に乗ったり…。没後10年が経過しても、決して過去のヒトになっていないのに驚く。

 横浜生まれの松岡は、7歳頃から独学でピアノを弾き始め、10代半ばで初めて自分のバンド“松岡直也カルテット”を結成。その後“浜口庫之助とアフロ・クバーノ・ジュニア”にピアニスト、アレンジャーとして参加し、1959年最大のヒットを記録した「黄色いサクランボ」を編曲している。ラテン音楽にハマったのは、その後間もなく。自ら様々なラテン・バンドを率い、60年代になっていずみたくが主宰する芸能プロダクションに所属。映画・TV・CM音楽などの作・編曲を手掛けつつ、スタジオ・ミュージシャンとして活動した。72年には、彼が編曲したTVドラマ主題歌「太陽がくれた季節」で、フォーク・トリオの青い三角定規が日本レコード大賞新人賞を獲得。いしだあゆみ「小さな愛の歴史」では日本作曲家大賞を受けている。再び自身のバンドでのライヴ活動に注力するようになったのも、その頃からだ。

 77年に松岡直也オールスターズ名義による『ジョイフル・フィート』でアーティスト・デビュー。期待されていたのだろう、本場ラテンの名門ファニア・レコーズのレーベルを使用しての登場だった。そして79年には、ホーン・セクションを加えた大所帯のラテン・ジャズ/ラテン・フュージョン・バンド、松岡直也&ウィシングを立ち上げ、活動を本格化。このバンドは松岡以下、村上ポンタ秀一 / 渡嘉敷祐一(ds)、大村憲司 / 高中正義 / 和田アキラ(g)、土岐英史 / 伊東たけし / 清水靖晃 (sax) 、ペッカー (perc) などが在籍し、折からのフュージョン・ブームに乗って人気を拡大していった。

 ただし、松岡のキャリアを表面的に追ったところで、アルファ、および村井邦彦との直接的関係は認められない。でもいろいろ調べていくと、松岡直也&ウィシング時代の主要曲を楽曲管理していたのがアルファ音楽出版だったことが分かってくる。その最初が、79年に発表された松岡直也&ウィシングの初アルバム『THE WIND WHISPWERS』だった。

 ひと口にラテンといっても様々なスタイルがある。が、これは、クルセイダーズのジョー・サンプルにインスパイアされたと思しき美しいメロディ・ラインを、アフロ・キューバン・タッチのリズムに乗せたもの。しかもそのグルーヴはサルサの伝統に則ったというより、アメリカ的な16ビートとサルサのクラーヴェを融合させたフォームなのだ。でもそれが難しくなく、日本人の琴線に触れるような哀愁を漂わせて耳に届く。そうしたところが、松岡人気がジワジワと広がっていくことに繋がった。

「この当時、俺ら界隈のミュージシャンって、各々目指す方向は違っても“今まで日本にはなかった新しい音楽をクリエイトするんだ”っていう気持ちは全部同じ方向を向いていたんだよ。その“意欲”はすごかった」(村上ポンタ秀一『俺が叩いた』より)

 つぶさに見てみると、この『THE WIND WHISPWERS』を筆頭として、ウィシングが79〜81年に出した『FIESTA FIESTA』『MAJORCA』『SON』『THE SHOW』という合計5枚のアルバムの収録曲のうち、約半数がアルファ音楽出版の管理下にある。更に81年に組んだロック・プロジェクト(メンバーは村上ポンタ秀一・清水信之・青山徹・村田有美ほか)の MASHの唯一作も、例外ではなかった。

 アルファとの関係性が希薄といっても、そもそも松岡周辺を見渡せば赤い鳥出身のポンタや大村憲司がいるし、アルファお抱えのソングライター:滝沢洋一のソロ作『レオニズの彼方へ』(78年)にも参加している。アルファ専属の吉田美奈子とは、プログレッシヴ・ディスコと異名を取った実験的12インチ・シングル『Lovin' Mighty Fire』(79年)を作ったりしていた。前述プロフィールの通り、ミュージシャン歴の長い松岡だから、具体的な作品が残っていなかったとしても、何処かで村井と接点があっても何ら不思議ではない。彼のセッション・ミュージシャン時代は、演奏しているミュージシャンの名前なんてクレジットされないのが常だから、尚更のことだ。管理楽曲がいつもアルバム半分程度なのは、何かビジネス的配慮からだと思われるが、人気が上昇していくその前に作曲家の根幹をなす著作権管理を委ねているのは、やはり2人の間の信用の厚さから来るものだろう。

 その一方で、深町純や横倉豊、やがては久石譲の楽曲管理を委ねられているのは、やはり村井がピアノを嗜むジャズ愛好家だったからではないか。つまりビジネスで繋がる前に、ジャズとピアノで心が繋がっていた。何よりそうした音楽愛の深さが、当時のアルファ周辺の人たちに通底するモノだったと強く感じられるのである。