元スタッフが引き寄せた滝沢洋一『幻の2ndアルバム』の奇跡①

text:都鳥流星

2015年に初CD化された唯一作『レオニズの彼方に』(1978/東芝EMI)が「シティ・ポップの名盤」「奇跡の一枚」と高く評価されているシンガー・ソングライター、作曲家の滝沢洋一(2006年に56歳で逝去)。

先日、滝沢が90年代に起業する音楽制作会社ハウス・ティーで育成していた愛弟子「山上ジュン」へのインタビューを全2回の記事で紹介した。

● “愛弟子”が語る、素顔の滝沢洋一①

● “愛弟子”が語る、素顔の滝沢洋一②

その山上が出入りしていた、滝沢経営のハウス・ティー内でスタッフをしていたと思われる男性が、今から10年ほど前に更新していたブログを発見した。

そのブログには、生前の滝沢との思い出を綴った一本のエントリーがあった。どうやら男性は、滝沢のハウス・ティーでカラオケ事業の手伝いをしていた元スタッフだったらしい。ブログの冒頭に、滝沢との出会い、そして人づてに滝沢の死を知らされたことを明かしている。

「かれこれ17〜18年前になります。バンド仲間の紹介で、この方との出会いがありました。歌手・作曲家の滝沢洋一さんです。数年前に他界されたと聞いています。ご冥福をお祈りすると共に、いくつかの思い出を綴ります」

そこには、滝沢が作曲家として生活していくことの厳しさ、精魂込めて作った曲がボツにされることの辛さなどを、この男性に諭した話などが記されていた。

「“作曲家になりたいんです!”オレが、そう言うと、彼は“20曲、30曲書いて、それでも採用されないなんてザラだよ。精魂込めて作った作品が、そんな事になっても、耐えられる?” 経験者の言葉は、重く、でも若かったので反発してましたね〜(笑)。今は痛感してますよ~、滝沢さん」

このブログの中でも印象的だったのは、滝沢が男性に打ち明けた“赤い靴”のエピソードだ。

「いろいろ苦労話も聞きました。一番覚えているのは“ショーウィンドウの前で、娘が赤い靴が欲しい!と言ったんだ。でもね、買ってあげられなかったんだよ。過去なんて何の役にも立たない。今しかないんだ”」

かつてはアルファ・ミュージックの契約作曲家として、サーカスやハイ・ファイ・セット、いしだあゆみ、ブレッド&バターらに数々の名曲を提供していた滝沢だが、82年には自身の2ndアルバム『BOY』が発売延期で“お蔵入り”となり、80年代後半に入ると作曲の仕事は減って、一時は宅配ピザ屋の経営に軸足を移していたほどだった。

しかし、ブログの男性は、滝沢が作曲家としての過去を否定的に話したことについて、その後の滝沢の再評価を予見していたかのような感想を記していた。

「人間、誰だって“今”しか無いんですよね。でも、それが未来につながってるって事を、意識できてる人は少ないと思うんですね」

滝沢も、自身の死後9年を経て唯一作『レオニズの彼方に』が初CD化されるとは思っていなかっただろうし、ましてやサブスクというサービスが音楽の主流となり、海外でも自身の楽曲が聴かれるようになる日が来るとは夢にも思っていなかったに違いない。

未来とは「過去の積み重ね」であり、過去は確実に未来へつながっている。あの東日本大震災が発生するちょうど1ヶ月前、2011年2月11日に公開されたこのエントリーは、以下の言葉で結ばれていた。

「最後にお会いしてから10年以上経ちます。現在、ご遺族がどちらにいらっしゃるのかも分からないし、お墓にも行けてません。でもオレは忘れませんよ。安らかに。あなたの曲は永遠に歌い継がれるのです」

私は、このブログを書いた男性と直接会って話を聞かなければならない、そう思った。滝沢のもとで働き、滝沢の口から過去についての話を聞き、亡くなった後も滝沢のことを思い出してブログに綴ったこの男性であれば、ミュージシャン仲間たちとは違った滝沢像を聞き出せるかもしれない。そんな直感が働いた。

しかし、男性のブログは10年近くも“休眠中”である。そして住所や電話番号はおろか、男性の名前もメールアドレスさえも分からない。唯一の“頼みの綱”は、6年ほど前に同ブログのコメント欄で読者へ返信していることを確認できたことだった。

「もしかするとコメント欄で取材をお願いすれば、彼から返信が来るかもしれない」

そんな一縷の望みに賭けて、私は2022年10月9日、コメント欄へ滝沢に関する取材依頼を書き込んだ。

そして3日後の10月12日、男性のブログのコメント欄に以下のようなメッセージが掲載された。ブログの男性から「返信」がきたのである。

「滝沢さんの取材をされているT様へ。ちょっと返信の仕方が分からずで。宜しければメールアドレスをコメントで教えてください。もちろん非公開は約束します」

6年間もコメント欄に書き込みがないブログ主からの返信に私は興奮した。どうやら私の名前を「都鳥(とちょう)」と読み間違えたらしい。コメント欄へ再び取材依頼とメールアドレスを書き込み、男性からの返信を待つことにした。

それから一週間後の10月19日朝、男性からメールが届いた。

「何年も放置していたブログの記事を見つけていただいてありがとうございます。滝沢さんの特集記事も、昔の仲間から連絡が来ていてすでに拝見していました。

かれこれ30年も昔の事ですが、故人には大変お世話になり、供養になるならお話ししたいと思いますが、私が知っているのはハウス・ティー時代の数年の事。しかもご家族への配慮等で、話せることは限定もしくは許可が必要かもしれませんね。

とりあえずよろしくお願いいたします」

男性の名は、小林清二氏。現在は音楽の世界から離れ、家族とともに神奈川県内に暮らしているという。

小林氏へ御礼のメールを返し、直接お会いして滝沢の話を聞きたい旨を伝えると、翌20日に再び返信があった。

そこには、サラッと衝撃的なことが書かれていた。

「2ndアルバム『BOY』のDATを持っています、カビて死んでるかもしれませんが…。ご本人からいただいて、そのあと色々延期になった経緯も聞いて、“遠回りしたけど、これからは若手を育てる事に夢を託す”的なお話もされていました」

……長いこと行方不明のままだった「幻の2ndアルバム」の音源の所在が、意外なところで判明した。

(つづく)