“愛弟子”が語る、素顔の滝沢洋一①
ファミレスで1日8時間×3年間の音楽談義
Text:都鳥流星
アルファ・アンド・アソシエイツ(77年からはアルファレコード)制作の唯一作『レオニズの彼方に』(1978/東芝EMI)が近年、「シティ・ポップの名盤」「奇跡の一枚」と高く評価されているシンガー・ソングライター、作曲家の滝沢洋一(2006年に56歳で逝去)。
ここ2年ほど滝沢の音楽活動とその生涯を取材する中で、当時の音楽関係者からの証言や情報をほとんど得ることができなかったのが、晩年に経営していた音楽制作会社のことだった。
滝沢は80年代後半頃より、生業の軸足を作曲家から宅配ピザ屋の経営などに移しており、音楽業界からは離れてしまっていた時期があった。その後、再び音楽の世界に返り咲くことを決め、90年代に音楽制作会社「ハウス・ティー」を起業している。「ティー」とは、もちろん自身の頭文字である。
滝沢は、同社の「カラオケ事業」で得た利益を、後進の育成のために役立てようと、若手アーティストを育ててレコード会社へ売り込む活動を始める。滝沢から才能を見出され、のちに「キューンソニー(現キューンミュージック)」から真心ブラザーズ・桜井秀俊プロデュースのシングル「負け犬」でメジャーデビューしたのが、シンガー・ソングライターの山上ジュンだ。
今も滝沢のことを「作曲の師匠」と言って憚らない山上に、滝沢との思い出、滝沢の音楽性、そして昨今のシティ・ポップ再評価などについて話を伺うことができた。
山上は現在、地元・島根県松江市に拠点を移し、CM音楽クリエイター、音楽教室講師、地元ミュージシャンの育成などの音楽活動をおこなっており、「山上ジュン」としてYouTube公式チャンネルにて新曲を披露している。今回のインタビューは電話にておこなわれた。
──本日は、お忙しい中このような機会をいただきありがとうございます。山上さんは、島根の高校卒業後に2年間のサラリーマン生活を経て上京し、その後、音楽専門学校に入学して23歳でバンドを結成。そこからプロを目指すようになり、1998年にキューンからシングル「負け犬」(作詞:大江千里・山上ジュン、作曲:山上ジュン)でメジャーデビュー、99年にはアルバム『メロドラマ』もリリースされています。まずは「作曲の師匠」である滝沢洋一さんとの出会いから教えていただけますでしょうか。
山上:いろいろ調べていただきありがとうございます(笑)。実は、その23歳のときのバンドというのが、滝沢さんの経営していた音楽制作会社「ハウス・ティー」にいたスタッフたちで結成したバンドなんですよ。ザ・ホットチョコレートブラザーズバンドって言うんですけど。当時は「ホッチョコ、ホッチョコ」って言ってました。
まず、滝沢さんとの出会いには、僕が通っていた音楽専門学校が関係しているんです。渋谷の池尻大橋にあった「メーザー・ハウス」(2020年3月に閉校)っていう音楽専門学校のギター科に3年間通っていまして、学内のコンテストでヴァン・ヘイレンの曲を歌ったらグランプリを獲っちゃったんですね。ヴォーカル科ではなくギター科だったのに(笑)。そのとき、学校でキーボードを教えていた越智洋一郎さんの目に止まったんですよ。
──越智洋一郎さんといえば、滝沢さんの玉川学園高等部時代からの同級生で、清野由美さんの「海辺のDecember」(『NATURAL WOMAN』所収、1981/日本コロンビア)の作曲を滝沢さんと共作されている方ですね。西城秀樹「Love Togetter」(『GENTLE・A・MAN』所収、1984/RVC)も滝沢さんと共同で編曲されています。
山上:はい、その越智さんから「君、いいね。ちょっと会わせたい人がいるんだけど」と紹介されたのが滝沢洋一さんだったんです。当時、滝沢さんの経営していたハウス・ティーは、カラオケ用の楽曲制作の仕事で成功していた頃でした。有名なギタリストも外部スタッフとして制作に関わっていて、今思うと贅沢なカラオケ音源でしたね。
──では、越智さんに紹介されてすぐに、滝沢さんから「何か一緒にやろう!」という話になったのでしょうか?
山上:知り合ってから、デモテープを作ってはハウス・ティーのポストに入れて、オリジナル曲を聴いてもらおうとしていたんです。しかも2年間で500曲くらい。でも一向に滝沢さんから反応がないという(笑)。シビレを切らして僕から連絡したら、ようやくテープを聴いてくれたみたいで、「every time you go away」という曲を「これ、いいね」って初めて言ってもらったんです。そのときは嬉しかったですね。
──紹介から曲を聴いて貰えるようになるまでが長かったんですね(笑)。そこから、滝沢さんが山上さんをプロデュースすることになったのでしょうか?
山上:ハウス・ティーのカラオケ事業が軌道に乗っていたので、これからは若手のアーティストを育てていこう!ということで、僕とハウス・ティーのスタッフたちとでバンドを結成して、メジャーデビューを目指すことになったんです。それがさっきのホッチョコです。
当時、ハウス・ティーが借りていたワンルームマンションの部屋に居候させてもらえることになり、光熱費もタダ、給料も出る、滝沢さんが乗っていた車も乗り放題。唯一、電話代だけ払えばいいという至れり尽せりの生活でした(笑)。
──まるで、赤塚不二夫の家に居候していたタモリのような生活ですね(笑)。それから、デモ・テープを作ったり、作曲をしたりという生活だったんですね。
山上:ただし、この居候生活は滝沢さんの話に毎日付き合わなきゃいけないというオマケ付きで、それも1日8時間(笑)、そんな生活を3年近く続けていました。世田谷の経堂にあった「ジョナサン」というファミレスで、もう毎日のように音楽談義ですよ。
──生前に一度もお会いすることが叶わなかった私にとっては、贅沢なオマケです(笑)。そこで、音楽や作曲について、いろいろ学ばれたのでしょうか?
山上:滝沢さんを一言であらわすと、音楽だけでなくファッションも何もかも生活そのものがとにかく「アメリカン」なんです。よく向こうの映画とかで、男がスパムをナイフで切って食うみたいなシーンがあるじゃないですか、あんな感じの人です(笑)。
音楽についても「お前、ビートルズで言ったらポール(・マッカートニー)、あとスティーヴィー(・ワンダー)、これを聴かなかったら大失格だぞ」とよく言われましたね。「僕もジョン・レノン好きですよ」と言ったら「バカヤロー、ビートルズで聴くべきはポールの転調だ!」と。
あとはジャズ、ボサ・ノヴァにも明るい人で、いろいろ教えてもらいました。上野毛のジャズバーにもよく連れて行かれましたね。
──滝沢さんによる毎日の音楽談義から学んだことは多かったと思いますが、山上さんの楽曲のプロデュースの方はどうでしたか?
山上:とにかく僕ら若い人たちから吸収しようという姿勢がありましたね。例えば当時、僕がジャミロクワイのことを教えたら、すぐにCDを買ってきてくれたり。滝沢さん的には、アシッドジャズと呼ばれていた音楽に足が向いていたようです。でも、本人が得意としていた「転調」は封印していたんですね。
──滝沢さんといえば、過去に作曲した作品を聴くと「転調からの元キー戻し」がお家芸のようなところがありますよね。
山上:90年代頃の滝沢さんは、転調が続くような曲はこれから流行らないと気づいていたようです。実際、95年頃に大ブームとなっていた小室サウンドは転調の無い曲がヒットしていましたから。なので、滝沢さんは常に時代を見ていたんだと思います。自分が昔やっていたような、次々に転調する曲は「今は流行らない」んだと。
82年に、自分のセカンド・アルバム『BOY』がお蔵入りにされて痛い目に遭ったこともトラウマになっているでしょうし、プライドもあるので、転調のことだけでなく自分の作品を発表することから距離を置いていたんじゃないかなと思いますね。
──そういう意味では、自分自身の考えが変わったのではなく、時代を見て「あえて転調を封印していた」んですね。
70年代後半から80年代前半までの滝沢は、1曲の中で繰り返される「転調」と元のキーへ戻すコード進行が特徴であった。これは、滝沢にサーカスなどへの提供曲を頻繁に依頼していた、アルファの元プロデューサー・有賀恒夫も、滝沢の楽曲の特徴として指摘していた。
● ALFA RIGHT NOW 〜ジャパニーズ・シティ・ポップの世界的評価におけるALFAという場所 第六回「滝沢洋一を探して②」滝沢洋一とは何者なのか
https://note.com/alfamusic1969/n/n20daf30c5815
そんな自身の代名詞とも言うべき転調を、90年代以降は完全に封印し、次に流行る音楽の潮流を見据えていたという滝沢。
次回、山上と滝沢による音楽制作の様子、そして突然おとずれた滝沢との別れ、さらに山上が昨今のシティ・ポップブームと滝沢洋一の関係についても言及する。
(次回へ続く)