西城秀樹の「かぎりなき夏」を生み出した、作詞家・ありそのみと作曲家・滝沢洋一 “奇跡の出会い”

text:都鳥流星

2015年に初CD化された唯一作『レオニズの彼方に』(1978/東芝EMI)が「シティ・ポップの名盤」「奇跡の一枚」と高く評価されているシンガー・ソングライター、作曲家の滝沢洋一(2006年に56歳で逝去)。

過去2回にわたって、滝沢が1984年に西城秀樹へ提供した「かぎりなき夏」という曲にまつわるエピソードを、当時の音楽関係者からの証言、そしてシティ・ポップの世界的ブームの立役者である在米DJ ヴァン・ポーガムへのインタビューという形でご紹介した。

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西城秀樹が歌唱し、アルバム『GENTLE・A MAN』(1984)に収録した「かぎりなき夏」は昨今、シティ・ポップの名曲として音楽ファンの間で再評価され、ついに遥か遠いアメリカの地でも注目を集めるまでになった。

そして、1982年に発売予定も延期のまま“お蔵入り”となった滝沢の2ndアルバム『BOY』の音源が収録されたDATが存在していることが判明。もしこのテープが“生きている”のであれば、滝沢が歌唱する幻のオリジナル版「かぎりなき夏」も日の目を見ることになる。

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そんな西城秀樹「かぎりなき夏」の作詞を担当したのが、作詞家・ありそのみ(阿里そのみ)であった。

ありは、クリスタルキングのヒット曲「大都会」B面の佳曲「時流」や、八神純子「I'm A Woman」、早見優「太陽の恋人」など、70-80年代のアイドル歌謡、ニューミュージックのジャンルで主に活躍していた作詞家だ。

世界的シティ・ポップブームの火付け役であるDJ ヴァン・ポーガムをして「主題が美しく哀愁味を帯びている完璧な曲」と言わしめた西城秀樹「かぎりなき夏」の詞世界は、一体どのようにして生まれたのだろうか。片岡義男の小説『限りなき夏 1』(1981)をイメージして書かれた詞だったという話は本当なのか、そして「かぎりなき夏」の作詞を依頼したのは誰なのか、疑問は尽きない。

これは、あり本人に直接お話を聞かなければならない。そう考えた私は、さっそく作詞家「ありそのみ」にコンタクトを取るため、連絡先を探すことにした。そして、ありの消息について書かれた「裏窓(バンド名)のブログ」という個人ブログにたどり着いた。私は、ありに関するエントリーのコメント欄を通じて、ブログ主を介す形で、ありに連絡を取ることが出来たのである。

シングルカットにもなっていない「かぎりなき夏」という曲のことについて、作詞家が一体どこまで覚えているか不安に思いながら、ありに質問をした私は、すぐにそれが杞憂であったことを知る。ありは、この曲のことを長年ずっと思い続けていたというのである。

「実は、私にとっても<かぎりなき夏>の歌詞は、個人的にとても思い入れのある作品なんです。よく、ありさんの代表曲は?って聞かれるんですけど、私は西城秀樹さんのアルバムにしか入っていない曲だけれど、この曲をいつも挙げてきました。シングルにもなっていない、カラオケにも入っていないので、カセットに録音して知り合いに聴かせていたこともあります」

ありは当初、阿木耀子や阿久悠へのリスペクトとして「阿」の字を用いた「阿里そのみ」のペンネームで活動していたが、当時の所属事務所の社長から「見た目も優しいし、インパクトがあるから」というアドバイスを受けて、80年代初期にすべて平仮名の「ありそのみ」に改名している。

ありによると、滝沢の幻の2ndアルバム『BOY』のディレクターであった庵豊(いおり・ゆたか)氏からの依頼で、「かぎりなき夏」の作詞を手掛けることになったという。ありは以前から庵に作詞を依頼されることが度々あったと言い、滝沢のアルバム『BOY』発売にあたって、2曲の作詞を依頼されたという。庵から渡されたのは、のちに「サンデーパーク」というタイトルがつく曲のデモと、「かぎりなき夏」のデモが入ったテープであった。

「滝沢さんはメロ先(メロディを先に作ること、曲先)だったので、あの歌詞は、まさに滝沢さんのメロディが連れてきたんです。あの美しい曲があの歌詞を私に書かせたんだと思います」

やはり、この曲は他の多くの滝沢作品同様に「曲先」であった。そして、幻想的で美しい男女の描写と、夏の終わりを感じさせる情景の詞世界は、あのメロディが連れてきたものだった。

しかも、ありは「片岡義男の小説のイメージで」というオーダーに対して、片岡の『限りなき夏 1』をあえて読まなかったという。

「前から、片岡義男さんの作品は印象的なタイトルも含めて大好きでしたが、作詞するにあたって『限りなき夏 1』はあえて読みませんでした。変に影響を受けずに済んだという意味で、むしろ読まなくて良かったと思っています」

横顔しか見えない「君」と、その瞳に映る「僕」だけが取り残された、季節はずれの砂浜。そのイメージは、片岡の小説ではなく、滝沢のメロディによって紡ぎ出されたものだったのである。

作詞を依頼するにあたって、ディレクターの庵は、ありとの他愛ない雑談を通じて、そのイメージだけを伝えていた。その指示は決して具体的なものではなく、本当に漠然としたものであったという。そして、滝沢の作曲したメロディからインスピレーションを受けたイメージが、あの美しい歌詞を生み出したのである。

あり自身が、作詞から40年以上を経過しながら最も印象深い曲だったと語る「かぎりなき夏」。

まるで一本の映画のようなヴィジュアルを想起させるスタンダードソングは、滝沢のメロディから着想したイメージを言語化した作詞家ありそのみの手によって完成をみた。

そして、この曲は滝沢のアルバム『BOY』が“お蔵入り”という悲劇を受けたことで、稀代の歌手・西城秀樹へと提供される事になったのである。

それが、この曲の“数奇な運命”の始まりであった。

(つづく)